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Essays

道東ボーダーツーリズム:
国境を越えない旅を終えて
  [pdf版]  

中野寧々(富山大学経済学部経営学科三年)  


  現代の日本では、地方創生戦略として各自治体が様々な取り組みが行われている中で、やみくもに必死になって、 なんとか輝いた事案を出そうとして、本来の地域の特色がいまひとつ描けていないと感じる。 わずかな隙間から光を放ったような素朴な特色でも、地域住民だけでなく外部の参加者からの支えもあれば、 たとえ小さくても永続的に輝くことができる。
  しかし、時には辛辣で、痛ましい事実があった歴史や少し複雑で、きわどい文化を見るときがある。 そんな特徴も含めてその土地を守っていく活動を継続し推進していくことは、現状は難しい。様々な参考文献をみながら、 どうしたらその入り込んだ部分を崩さずに地域の魅力を発信していけるか考えているところ、 「道東ボーダーツーリズム」というものがひょこっと、私の眼前にあらわれた。突然の、思いがけない出会いであった。 まさかこの旅が、研究面でも、大学生活の一部分としても、画期的なものになるとは思いもしなかった。 これは、私が道東ボーダーツーリズムに参加して、これがどのように実施され、どのような人たちによって支えられているか、 フィールドワークに行くつもりで記録したものである。

◆10月2日 <一日目>
  根室中標津空港に9時15分集合。10分前に行くともうほとんどの参加者がその場で待っていた。 参加者それぞれの顔を見渡してみると、大学生らしき若者が見当たらない。 一人大学院生ぐらいの年頃の男性が私の後方に立っていただけで、他はスーツ姿や私服の中年男性が数人、 老夫婦、三十代ほどの女性が二人、外国人女性一人だった。驚いた。 北海道大学から数人参加するだろうと思っていたが誰もいなく、学生は私一人だったのだ。

中標津空港集合 松崎さん登場!

みな揃い、旅行会社の添乗員さんから簡単な挨拶がなされ、その後バスガイドさんの指示に従って、 専用のバスに乗り込んだ。あたしは前から三列目右側の座席に座った。 早速バスが出発したところで本ツアー主催者の岩下明裕教授(北海道大学)が最前列から立ち上がり、 旅行内容の詳細が記載された資料とこのツアーに対するアンケートが配られて挨拶が始まった。 ボーダーツーリズム (註1) とは何か、このツアーに参加している人には専門家や教授が多く、 全国各地からこのツアーに参加していること、このツアーは各施設や場所を熟知しているスペシャリストが直々に バスの中で、あるいはその場で解説してくれるとても豪華なツアーであることを説明してくれた。 もらった資料を見てみると、ツアー企画立案者は北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター・境界研究ユニット (註2) とNPO法人国境地域研究センター (註3) と記載されており、その下にそれに協力してくれている各市の役所や法人がずらりと載っていた。 道東、道北も含め、それだけの事業者が地域を挙げて運営が成り立っていると思うと感慨深いものがあるなと感じた。
  バス乗車後、スーツ姿に長靴を履いた男性が入ってきた。この人がツアー初めてのゲスト、 根室市役所北方領土対策課の松崎誉さんだ。松崎さんは車窓から見える根室の街並みを紹介しながら 根室市がどれだけ北方領土の返還を強く求めているかを熱く語られた。 橋の入り口に”返せ!北方領土”と掲げられたオブジェを見つけ、その実態を明らかにした。 しかし一方でロシア側との交流も大事にしているそうで定期的にビザなし交流 (註4) などを行い、仲を深めている。 根室の魅力あるところを熱く語られた松崎さんはお土産に根室の古い駄菓子“オランダせんべい”を配っていただき 根室駅前で下車し、役所に戻った。ここで、中標津空港で集合できなかった三人の参加者が乗り込んでバスが出発した。
  バスが最初に到着したのは「根室半島チャシ跡」である。チャシはアイヌ語で“とりで”を意味する。 主に海岸の崖付近に壕(深い堀)をつくり、祭祀やとりでとして使われた場所だそうだ。 バスを降り、茂みの中を黙々と進んでいき、やっとその場にたどり着いた。

チャシ跡を行く 猪熊学芸員の熱い解説

ここでは今日の後半で訪れる「歴史と自然の資料館」の歴史担当学芸員の方が説明してくれた。 この場所は最近から観光客が増加しているらしく、まだ通路は整備途中だそうだ。 ここでツアーの参加者の一人、朝日新聞編集委員の刀祢館正明さんは、 職柄上、素朴な疑問を“なんで”“なんで”と何回も質問されていた。 この人はこれから行く先々の場所でもたくさん質問してメモを取られていた。 そして知らぬ間に、共同通信と現地の北海道新聞の記者がこのツアーに同行していた。
  チャシ跡を見終わった後、次は昼食場へ向かった。納沙布岬、北方館のすぐ近くの食堂で海鮮丼をいただいた。 食べている最中に、急にマイクを持った店員さんが地元特産品の宣伝ショーが始まった。 根室は昆布が有名らしく、煮立ちが早い昆布や長さ6メートル以上ある昆布を袋から出して見せ、 “根室の昆布は一味違いますよ~“とそのおいしさを力説していた。昼食後、各自で納沙布岬を見学し、 海の向こうに見える歯舞群島を眺めた。爆弾低気圧のせいで風がとても強く、波は大荒れだったが空は晴天で、 水晶島や貝殻島がかすかに遠くのほうに見えた。12時半過ぎから敷地内にある北方館に集合であったため、 そこへ向かった。

昆布おやじ 北方領土を見る

  北方館では小田嶋英男館長が直々に北方領土の歴史と近年の動向について詳しく説明していただいた。 館長に私が富山県から来た事を伝えると、少し驚いた表情で「富山県からいらしたのですか。 実は根室市は富山と深い関係があるのですよ。」と富山との関係性について語ってくださった。 話によると、北方領土から引き揚げてきた富山県出身者が北海道に続いて2番目に多いそうだ。 なぜ遠い土地からわざわざ移住しに来たのか。明治期、富山の漁村は漁業不振や災害が相次いでいたため、 新たな漁場を求め、北方四島に進出してきたそうだ。
  富山の中で最も移住人口が多い黒部市とは姉妹都市を結んでいて、 学校の授業の一環で根室からの北方領土出前講座を行ったり、 2月7日の北方領土の日では無線交信を行ったりと様々な交流がなされている。 富山と思ってもみなかったところで関わり合いがあって、少し根室に親近感が湧いた。
  館長の館内案内が終わると自由時間が与えられたが、すぐに同行していた北海道新聞の記者に呼び止められた。 富山から来た大学生ということで珍しく思ったのだろう。このツアーに参加したきっかけとこの経験を どう生かしていきたいか、聞かれた。話し終わった後、「よかったら明日の朝刊に載るので読んで下さい。」と言って、 記者は次に老夫婦の方に取材しにいった。 こうしてボーダーツーリズムに着目するメディアの方がいる。 その記事を読んで、関心を持って参加してくれる人もいるのだろうか。そんなことをぼんやり考えていた。
  自由時間は10分程度だったためお手洗いを済ませ、出口に向かった。 出口では添乗員さんが大きな封筒の中に入っている北方領土グッズを渡してくれた。 中を見てみると『われらの北方領土2014年度版』と書かれた分厚い冊子と北方領土の イメージキャラクター“エリカちゃん”のボールペンやシールなどが入っていた。
  さて、ここからスタートするのはザ・“武田先生と行く鉄道廃線の旅”だ。 武田泉先生というのは北海道教育大学札幌校の教授で地域交通学、地理学を専門として研究している。 本来次に向かうのは花咲車石であったが、その道中に武田先生おすすめのスポットがあるという事で、 急きょそこも立ち寄ることになった。乗車中、先生が急にマイクをとって「ちょっと、すみません、 僕のおすすめしたい場所があるのでそこへ向かいます」といい、資料も配られた。 資料は先生自らが作成したもので、ツアーで行く場所周辺の慰霊碑や鉄道跡、 またその地域の観光イベントが行く順に番号がふられて記載されていた。最初に向かったのは東根室駅である。 乗車中に根室拓殖鉄道跡が車窓からこの辺りだと説明され、 ついでに現在の駅を見てみようという事で行くことになった。

最東端の駅 奮闘する武田先生

  「日本最東端の駅」という気のきいた看板があり、周りは閑散として野原が広がっていた。 ここで今まで同行していた北海道新聞と共同通信の記者の方々と別れた。 次に先生が「ここも行きたいのだけど」と岩下先生にお願いして行くことになったのが、 つい最近廃止決定された花咲駅だ。何にもないとこにぽつんと小さな青い駅舎が建っており、一日に数本しか止まらない。 先生は興奮してバスをすぐに降りて駆け足で駅舎の中に入った。 ほかの参加者たちもおぉー!これはすごい!といってその場へ向かった。 駅舎は貨物列車の車掌車をそのまま使ったもので大人5人程度が入れる狭さだった。 中には机の上に“廃止は残念だ、廃止やめてほしい”なども書かれた花咲駅との思い出をつづったノートが置いてあった。 素朴で自然に包まれたこのかわいらしい駅に私も感動した。 今日の武田先生と行く鉄道廃線の旅はひとまず、ここでおしまい。また明日も続くのである。
  本ツアーの行き先に戻り花咲車石へ向かったが爆弾低気圧の影響で海は大荒れ、車石は岬の先端から見えるため 近くまで見に行くことは危険だと岩下先生が判断し、手前にあるトイレだけ立ち寄り、 次に行くのは根室インフォメーションセンター。花咲港にあり、来航するロシア人が多く住む町で、 ロシア語での情報提供の場として設置されたものだ。 日本全国の郵便局を三百か所以上は訪れたという郵便局マニア(鉄道オタクでもある)山上博信さんは ”この建物、前は郵便局だったでしょう?“と職員の佐々木雅史さんに聞くと、 ”そうです、なんでわかったんですか!?“と驚いていた。 確かにセンターといってもそんなに中は広くなく人が住めるぐらいの小屋のような室内であった。 しかし、入って右側の壁にはロシアに関係する資料や本が棚にぎっしり入っていたり、 ロシア風の家具が置かれていたりとセンターらしくある雰囲気は漂っていた。佐々木さんのお話を聞くと、 最近ここへ訪れるロシア人は一日に3~4人程度だという。年々花咲港に在住するロシア人は減ってきているが、 そのわずかなロシア人のためにもこのセンターを運営し続けているのだ。 帰り際に、お土産にとロシア語の案内パンフレットをもらった。

ロシア語のパンフレットの山 リアル国境標石

  一日目に訪れる箇所は一番多く、バスの乗り降りが頻繁だった。岩下先生も「今日はかなりハードな一日ですが、 明日は午前午後と2か所程度まわるだけなのでご安心ください。」と言っていた。 次に訪れるのは“歴史と自然の資料館”である。 ここでは根室の歴史と自然をそれぞれ担当の学芸員さんが丁寧に案内してくれた。 歴史のほうでは日本とロシアの国境を明示していた“日露国境標石”が置かれていたり、 自然のほうでは北方四島に生息するエトピリカやラッコ、ヒグマの標本が展示されていたりと 実態を目で味わうことができた。
  今までもそうだが参加者の皆は、スマホやアイパッドで写真をたくさん撮っていた。 40分程度見学した後、またバスに乗りケーブル通信庫という場所に向かった。 軍事連絡を目的として海底にひかれたケーブルの跡である。 保存運動を担う久保浩昭さんが同行して説明してくださった。 この場を見終わってやっと今日訪れる箇所全てをまわることができた。 日もだんだんと暮れてきて夕陽のあかりが窓に入ってくるころ、 皆さんお疲れのようで、帰りのバスの中はしんとしていた。50分程度して今日泊まるホテルに到着。 チェックインを済ませ7時から宴会まで荷物を整理していた。

ケーブル通信庫 紋別から廻ってきたバス

  7時10分前に宴会会場に行ってみると数人もう座っていて、 私は山口県立大学の英語教師エイミー・ウィルソン先生(日本語ぺらぺら)の隣に座った。 人数もそろったところで、岩下先生の乾杯の合図で宴会スタート。 最初は食べながら、改めて参加者一人一人の自己紹介とこのツアーに参加したきっかけを言うことになった。 それでは今まで出てきた人物以外を紹介しよう。
 ・北海道大学教員の池炫周・直美先生 韓国系カナダ人の方で英語も堪能
 ・NPO法人国境地域研究センターの理事 山上博信さん
 ・稚内市住まいの地元藤井建設の若手社員 社長に勧められて
 ・ロシアと取引する企業をサポートする株式会社FECマネージメントの代表取締役 丹治宏剛さん
 ・北海道国際交流・協力総合センターの研究室長 高田喜博先生
 ・九州大学 教師 花松 泰倫先生
 ・中京大学 スラブ・ユーラシア研究センター客員教授 古川浩司先生
 ・岩下先生が通う接骨院の館長  岩下先生の紹介で
 それぞれ皆さんのツアーに参加した成り行きがわかり、すっきりした。 ほとんどが岩下教授の勧めで参加しているといっても過言ではないという事だ。なるほど。
  その日の晩酌は、大地みらい信用金庫から地酒「北の勝」とお土産用の中標津羊羹をいただいた。 私はエイミーさんと向かい側に座っていた朝日新聞記者の刀祢館さん、 九州大学の花松さんとそれぞれの普段の生活について聞きあっていた。
  そうして飲みながら話しているうちに時間もたち、お開きとなった。天然温泉で疲れをおとして就寝した。こうして長かったようで短かった一日が終わった。

◆10月3日<二日目>
  翌日、朝食バイキングを食べていたら刀祢館さんに「昨夜は眠れましたか?」と声をかけられ、 はい、よく眠れましたと答えたら、「僕は仕事しながらハウルを見て、それから寝ました」と微笑しておっしゃった。 こんな真面目な記者の方でもハウル観るんだなあと思いながら、サラダを自分のプレートに運んだ。 牛乳が飲みたいと思い取りに行くと、“新鮮な地元中標津産牛乳”と紹介されていてこれはおいしそうだと思い、 グラス一杯に注いだ。飲んでみると、一口目はカルシウムが引き詰まっているようなコクが感じられたのだが 二三口目からさっぱりすっきりとした味わいですっと体に沁みていくそんな味だった。 やっぱり生乳100%のものはおいしいとゴクゴク飲んだ。
  さあ二日目バスツアーの開始。7時45分頃、皆が揃ったところでバス出発。 中標津から標津へ向かい、北方領土館という資料館に着いた。 ここでは語り部として元島民の福沢秀雄さんから当時の実体験をお話ししてくださった。
  福沢さんは樺太島で生まれた。戦後9月2日、5才の時、ソ連軍官が上陸。家や土地、漁業権が奪われて本土に逃げてくる。 小学校に通うも、身なりは貧しく言葉は方言が少し混ざっているためいじめられた。 いじめっ子と喧嘩になり校長室に呼ばれたが、自分だけ責められ叱られた。そんな経験を涙ながらに語られた。 しかし今はロシア人とビザなし交流などで親密にお付き合いしているという。 なぜ、あれまでひどい思いをさせられたのに仲良くやっていけるのか。 それは、今、北方四島に住んでいるロシア人に悪い人はいないから、と答えられた。 北方領土問題を引き起こしたのはロシア政府であり、住民には何の罪もない、そうおっしゃられた。 その後、サハリンに訪問したときやビザなし交流でのホームステイをしたときの写真を紙芝居のようにして お話を交えながら愉快に明るく語っていた。

人気NO.1 福澤さんの講義 館からは国後島がきれいに見える

  武田先生と行くちょっとマニアックな鉄道廃線の旅、今日も始まります。 今日のルートの途中にも先生が見せたいスポットがあるらしく、バスの運転手さんに道のりを教えていた。 最初に着いたのは標津線根室標津駅の転車台跡である。 広々とした草地の中に一本の錆びたレールが約50メートルほど続いており、それに沿って歩いた。 武田先生のうきうきした足取りの後を微笑み見ながら私もその後ろをついていった。
  草木が生い茂っている周りの中に直径5メートルほどの転車台があり、今はもう使われていないためきれいな赤茶色に 錆びついてそこに残っていた。 武田先生はもちろん、他の皆も“これはまた、すごい”と興奮して、写真をパシャパシャ撮りはじめた。 そして先生はこの転車台の歴史を語り始めた。先生は自分が勧めるスポットでは必ず詳しくその場所を説明してくれる。 だからこそ、余計に鉄道廃線の旅は面白くなるのだ。

転車台ではしゃぐ直美先生 コンクリートアーチ

  二カ所目に訪れたのは今も戦争の爪痕が残る文化財、根室線越川橋梁(コンクリートアーチ橋)である。 戦争末期、網走から根室峠を通って根室海峡に抜けるソビエトとの軍事路線をつくるため、 朝鮮からの強制労働者を含めた多くの人を犠牲に出しながら完成させていった橋だ。 終戦間近で物資が乏しかったため鉄筋の代わりに竹を使用してつくっていたそうだ。 しかしこのアーチ橋は終戦を迎え工事中断となり、その跡が今も残っているということだ。 高さ15から20メートルほどの橋が真っ二つに折れたかのように道路を挟んで左右に端の部分だけ残っていた。
  本コースに戻り、いったん“小清水原生花園”でいったんトイレ休憩となった。オホーツク海と濤沸湖の間にある砂丘で、自然豊かで心地よいとこであった。 周りを歩いて見渡していると、参加者の一人の接骨院の館長が“ねねちゃん”と私の名を呼んだ。 “はい”と返事をすると、”富山大学の子なんやねえ、おじちゃん来月に富山に行く予定があるから会うかもしれないね”と 心優しい笑顔で話しかけてくださった。
  休憩時間も終わり、次に向かうのは昼食場所の”すし安”という網走の寿司屋だ。バスが到着すると、老舗の風格漂う店構えが見えた。 お店の二階に上がるともう料理は用意されていて、お寿司の他にじゃがいもにホワイトソースがかけてあるもの、 カキフライ、そして後からすまし汁が運ばれてきた。 畳に座ると、いきなり名刺交換が始まった。 今までバスで席が近くなかったり、渡しそびれていた方々が互いにちょっとした挨拶を踏まえつつ、交換し合っていた。 ぼぉーっとその光景を眺めていたら、皆さんは私にも名刺を差し出してくださった。 こういう時のために名刺を作っておけばよかったなあとちょっと後悔しつつ、ありがたく受け取った。 料理を食べ終えた後、“少し出発まで時間があるから、周辺を散策しに行きましょう”と 北海道国際交流・協力総合センターの高田さんが近くのテーブルの方に声をかけていて、 “中野さんもご一緒にどうですか?”とFECマネージメントの丹治さんが私も誘ってくださり、 九州大学の花松さんとその二人の背中を追った。何かないかと四人で探していると、 商店街を抜けて少し離れたところに網走市立美術館があった。無料かどうか高田さんが確かめに中へ入ったところ、 有料であったためあきらめて、外の広場を散策した。 高山さんは網走の歴史や文化について少し詳しいようで帰りがてらぽつぽつと話してくださった。 その歴史と文化を道すがらの光景に重ね合わせた。
 

原生花園からみる知床 昼食会場

  昼食後向かったのは、北方民族の当時の衣服や道具、暮らしが目で見てわかる北方民族博物館。 こちらでも学芸員さんがレクチャーしてくださり、とても行き届いた説明でお話ししてくださった。 また、当時の道具や伝統楽器を直接触れることができ、私は回して鳴らす楽器を使ってみた。 これがまたなかなか鳴らない。学芸員さんはそれをひょいととって簡単に鳴らして見せた。 地域の文化を自分のものにするというのは、コツがいる。
  休憩時間をとってから次に向かったのは博物館網走監獄。北方民族博物館から少し山道を登ったところにあった。 日本で初の囚人労働が行われていた監獄場所。広い敷地に様々な監獄施設が細部まで再現されており、 今も囚人たちを収容しているかのような雰囲気が漂っていた。計16回もの脱獄に成功した男の物語や監獄食の秘話など、 網走監獄のことなら全て熟知している専門学芸員さんが丁寧に説明してまわる監獄ツアーはとても楽しかった。
  五つの通路からなる獄舎は実際に当時から使用していたもので、一つ一つの牢屋の中を木造の隙間から見ることができた。 また北海道開拓のための囚人労働が行われた背景を映像で、展示物の真ん中に設置されたスクリーンで見ることができた。 一通り展示施設を見終わり、お土産どころへ。 出所祝いと記されたクリアファイルや手錠のキーホルダー、監獄Tシャツなどユニークな品がたくさんあり、 参加者の皆さんも各々、気に入ったものを買っていた。

北方民族博物館 展望台からオホーツクをみる
北海道NO.1と称される監獄博物館

  二日目もすべての箇所をまわり終わり、本日の宿泊場所へと向かった。 二日目は網走市内のホテルで、バスが到着してからさっと風呂に入ろうと大浴場へ。 中に入ると池先生もいらしたので隣に座って「お疲れ様です、今日もいろんな所まわって疲れましたね」とお声をかけた。 すると池先生は「あっ直美先生でいいのよ、あたしの学生たちもそう呼んでるし。 本当今日もくたくたやけど楽しかったねえ」と返してくれた。 「ところで、このツアーを知ったきっかけは?」と聞かれたため、私が所属するゼミの堀江典生先生が 岩下先生とお知り合いでこのツアーを紹介されたことを言うと、 「堀江先生のゼミ生の子だったのね!」と驚いていた。人の縁というのは思いがけないところにあるものだなあと、 しみじみ感じた。
  さっそく湯船に浸かってみた。湯の温度は高めで少し熱いぐらいだが、なめらかで肌に良さそうな湯で、 今日の疲れを吹っ飛ばしてくれた。 宴会場へ。乾杯の前に、岩下先生から「みなさん、直美は明日の昼で帰るからちょっと一言、しゃべってもらいます」と いうことで直美先生が席を立った。 「私は月曜に授業があるため、明日の昼までしかいられないので,私にとって今日は皆さんと最後の宴会となります。 まだあまりお話しできていない方とも沢山しゃべっていきたいなと思っていますのでよろしくお願いします。 では、今日も楽しみましょう。」といい、拍手がわいた。今回は夕食とともに流氷ドラフトという地ビールを片手に、 参加者の中で年長である老夫婦ご主人の方からの乾杯あいさつで宴会が始まった。 この流氷ドラフトは透き通った水色をしていてさっぱりとした味わいで飲みやすく、おいしかった。 女性客にウケているそうだ。 このビールの風情よりもアルコール度数を重視する男性陣は物足りんと一杯だけしか飲んでいなかった。


◆10月4日<三日目>
 三日目最初に向かうのはカーリングの聖地である北見市常呂のカーリングホール。 朝9時過ぎごろに向かったのだが、カーリング場内は氷面を平らになるよう整備していた。 実際にカーリング場内に入ることはできず、二階のガラス越しにのぞきながら見学し、 カーリングの歴史を常呂市役所の方からお話しくださった。しかし、刀祢館さんやその他の研究者の方々は満足せず、 少し残念がっていた。やはりこういったツアーではその現物を熟知して魅力やこだわりを しっかり自分自身の言葉で話せるガイドでないとなあと思った。

カーリング体験ツアーもやるそうです

  次に向かったのは、オホーツク流氷センター。通称GIZAと呼ばれており、氷のザクザクギザギザした印象からその名がつけられた。 ここでは氷点下20度の部屋でその寒さを体験し、本物の流氷に触ったり、氷漬けしたオホーツクの魚を見たりした。 センターの方で分厚いジャンパーを用意したものを着ていざ入ると、とてつもなく寒くて、 皆さむいさむいといいながらまわっていた。 その室内から出た後、プラネタリウムのようなスクリーンで星を眺めるように、流氷が四季にあわせて流れる過程を シアター内で見た。かなり背もたれが傾いた座席だったため、岩下先生は「皆さん、寝ないようにね」と含み笑いをした。 幻想的できれいだった。まるで自分が流氷になったかのようにオホーツク海から流れてくる流氷を海面上から撮った映像が 波の音とともに流れ、本当に寝てしまいそうになるぐらいうっとりする映像だった。
  ほかにも様々な展示物を拝見してここを去った。 次の場所へ向かう前にここでトイレ休憩をとるということで私はバスの中で待っていた。 数人の方々がバスに戻ってくる際、みんな片手にソフトクリームを持って帰ってきた。 流氷ソフトクリームという名で売られていたそうで、一人の人が買うとみんなもつられて買ってしまったそうだ。 実は前日もどこかでソフトクリームを買っており、こっちのほうがおいしかったそうである。 つられそうになったが、お昼がおいしく食べられないと思い、ぐっと我慢した。
  午前中の部は終わり、昼食場の紋別セントラルホテルへ向かった。 ホタテ尽くしのランチセットを満喫した。 このホテルで直美先生とはお別れということでバスの中で別れの挨拶を述べてもらうことになった。 先頭に立ち「皆さん今までお付き合いいただきありがとうございました。 今までのツアーでお会いしている方や今回初めてお会いした方もいらっしゃいますが、 皆さんと一緒にホットな国境観光スポットをまわって様々な情報、話題を話し合うことができ、とても楽しかったです。 これからのツアーも思う存分楽しんでください。」と述べてから、 それを英語にしてエイミー先生に直接伝わるように話ししてくださった。 心優しい配慮。直美先生をみんなで手を振って見送ってから出発した。
  ここからは踏ん張りどころ。北海道の東端をずーっとまっすぐ突き進み、宗谷岬へと向かう。 二か所ほど停車するがそれ以外はずっと乗車。運転手さんも大変である。 約4時間ほどの乗車中暇なので、国境地域研究なさる各研究員方々自身の研究発表を、 映像や手作りのパネルで紹介してくださった。 さすがスタディーツアー、皆さん意気込んでらっしゃった。

ますます過熱する武田先生、ついに山上さんと合体!

  最初の停車場として行ったのは、インディギルカ号の碑。旧ソ連の貨客船が転覆した際、村民が救助した行為と犠牲になった人々を悼み、 建立されたものだ。道東にはロシアにまつわる碑が多くあるなと思った。普段意識しない異国とのつながりがここにある。 ここを離れてから少しした後、トイレ休憩として“道の駅 さるふつ公園”に寄った。 ここでも皆さん、土産物を沢山購入なされていた。このバスツアーを観光とスタディーツアー両方とも楽しんで、 バス乗車中後半は皆さんお疲れのようでバスの中は静かだった。

猿払のケーブル跡 インディギルカ号記念碑

  日もだいぶ暮れてきて夕日の光がバスの中を射す頃、やっと宗谷岬にたどり着いた。 “皆さん、着きましたよー!”と岩下先生のはりきった声。「おー!長かったなあ」 「道東から道北までまっすぐ来た人なんてそういないですよ、すごい」と歓声が沸いた。 バスから降りるときれいな夕日とともにサハリンが遠くのほうにくっきりと見える。 何とも言えない美しさだ。視線の先に異国が見える。国境というものを目の前にして、 改めて“ボーダー”の意味を感じ取った。
  皆さんで記念写真を撮って少しその場を満喫したところで、宗谷丘陵へと進んだ。 丘陵にある平和公園では“世界平和の鐘”があり、山上さんと武田先生が威勢よくドーンと鳴らしていたところを 見ていたら、「あなたもどうですか?」と声をかけてくださった。 よし、あたしも平和を祈って鳴らそう。後ろに大きく引っ張って勢いよくドーンと鳴らした。

 稚内市内のホテルに到着すると、稚内市役所の方から稚内各スポットのパンフレットと粗品、 明日行く稚内副港市場や稚内商店街にあるお店で使える商品券3千円分をいただいた。 これはとてもうれしいプレゼント。何を買うか今のうちに決めておかないと。 今回で最後の宴会。今回は最年少の私が乾杯の音頭をとって始まった。 夕食は中華料理でロシアのサハリンビール付き、二つの丸いテーブルに分かれて座ることになった。 私が座ったテーブルには、岩下先生、エイミー先生、武田先生、山上さん、丹治さん、院長が座った。 このツアーで一番印象に残ったスポットを一人ひとり話していくなど、充実した三日間を振り返りながら、 様々な話題で盛り上がった。

◆10月5日<四日目>
  今日で最終日。長かったようであっという間だったこのツアーが終わりを迎える。 少し寂しい気持ちもあるが、私の研究のキーワードとなるようなものを探し求め、 今日も気を引き締めて頑張っていこうと気合いを入れた。
  半日で稚内市内をまわるということで朝の7時半にホテルを出発。 まず向かうのは稚内公園。稚内公園には樺太で亡くなった人々の慰霊碑や、元ふるさとの樺太への想いを表した氷雪の門、 九人の乙女の碑、南極物語で出てくる犬、タロとジロの南極観測樺太犬記念碑など多くの碑がある。 そして、なんといっても朝日に照らされた稚内市街地がとってもきれいだった。 ここでも記念写真を撮っておこうということで街全体の景色をバックに、みんなで集合写真を撮った。

中川さんの名調子 ついに日本海へ到達!
利尻富士もばっちり

ところで、紹介が遅れたが今日は稚内市役所サハリン課の中川善博さんが同行してくださっている。 次の場所へ向かう道中、車窓から見える建築物や朝の光景を面白おかしく、巧みに紹介してくださった。 聞き入っている間にあっという間に次のスポットに着いてしまう。南極物語でも登場している木造駅舎“抜海駅”。 古びた小さな駅舎で無人駅である。そして最後に向かうのが副港市場。 第一副港につくられた観光商業施設。ここで稚内港の歴史を中川さんに語っていただき、ここで店内自由散策となった。 私は家族や友人への土産を探しに行った。迷いに迷った末、利尻昆布海苔と地元特産品の熊笹が入っている饅頭を買った。 自分用のお土産には飲むヨーグルトを買った。実は、中標津の旅館で飲んだ飲むヨーグルトがとてもおいしかったが、 買いそびれてしまったのだ。 中標津産ではないけれど、なんだか諦めきれず、手がのびてしまった。
  店内をぐるぐる回っている間にあっという間に時間は過ぎ、空港で解散しない人との別れの時が来た。 バスの中に入る前に、ここでお別れする方々と挨拶をした。観光目的で来られた老夫婦のおばあちゃんの方には “お勉強頑張ってね”と声をかけられ、九州大学の先生には大学で地方創生関連のことに関して講義しているらしく “何か聞きたい事があったらここに連絡して下さい”と名刺をいただいた。 心の中はもう感謝の気持ちでいっぱいだ。 参加者の半数ほどが各自で帰宅するようで、バスには空席が目立っていた。 いよいよバスが出発。窓を開けて大きく手を振ってバスはその場を去った。 空港まではバスは少ししんみりとしていて、静かだった。
  卒論研究のフィールドワークのつもりで意気込み、参加したこのツアー。 参加者のなかで最年少かつ唯一の学生に皆さん戸惑うことがあったかもしれないが、 参加者の方々には本当によくしてもらった。私自身、大学生活の中で自分より離れた年代の人達と 交流する機会があまりないため、いろんなお話ができてとても楽しかった。

最後にNHKの取材も受けました!

  様々な分野に長けている専門家の方々と行くこのツアーは各スポットで教わる文化や歴史に、それと関連した知識や、さらに掘り下げた問題を付け加えて研究者が説明してくれる。そこで住民・参加者・専門家、それぞれが自らの立場からボーダーの意義を模索していく。その模索の過程がその地域に対する熱い想いになり、また来たい、ここを大切にしていきたい、という気持ちに変わるのである。 確かにこの観光は、傍から見ると少しで質実であまり興味を持たれないかもしれない。 しかしいったん参加してみると、とってもユニークで面白い体験がたくさん待ち受けている。 春に見る花が桜じゃなくたっていいじゃない。木全体に真っ白に咲くコブシだってとってもきれいである。 その地域に住む住民も含め、その土地にしかない風土、歴史をしっかり受け止めて理解し、 その地域独特の価値観を学ぶ(味わう)ことはとても大切なことだ。 さらにその経験をすることによって、自分自身が持つ価値観さえ広げていくことができる。 道東が私のもう一つのふるさとと思えた私の実感は、こうした成果なのかもしれない。 卒論研究の結論はみいだせなかったが、進むべき一本道は見えた。私の研究探訪の道はまだまだ続く。



(註)
1. ボーダーツーリズムとは何かを説明する前に、ボーダースタディーズの定義を先に説明しておきたい。 ボーダーツーリズムはボーダースタディーズの延長線上にできあがったものであるからだ。 境界(ボーダー)は、ある地理的な空間の社会的、政治的、経済的、もしくは文化的意味を、 別の空間のそれらと分離する。そのなかで国境は人間活動やその組織にとって必要不可欠な構成要素である。 われわれは、機会と不安の領域、接触と対立のゾーン、協力と競合の場、 両義的なアイデンティティや差異に伴う攻撃的な主張が行われるという、境界それ自体の持つ役割を深く 理解せざるを得ない。そして、帰属意識とアイデンティティに触媒作用を及ぼす境界の能力をうまく活用しながら、 排除や「他者」を創出する傾向を減じさせる方法を見出さなければならない。このような倫理的問いに取り組む研究である。 ボーダーツーリズムはその背景として、昨今、紛争の側面ばかりが強調される日本の国境・境界地域の振興をはかり、 地域に暮らす人々に貢献することを目的としたものである。本ユニットに北海道大学の観光学専門家が加わり、 これを拠点として九州大学と中京大学の研究者が分担者として参画し、境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)に 結集する全国の自治体や地域のシンクタンクも結集させ、研究者と実務者の密接な連携の下で国境観光の 創出に総力をあげて取り組んでいる。

2. 日本における境界・国境研究(ボーダースタディーズ)を主導し、境界・国境問題を研究する人材を育成することを 目的とした機関。事業としては、境界研究に関する研究および調査、学術誌の刊行、 スラブ・ユーラシア研究センター、境界地域研究ネットワーク(JIBSN)と連携した夏季集中講座、シンポジウム、 博物館展示の開催、国内外の研究機関・ネットワークとの連携を行っている。

3. 日本は海に囲まれた国であり、国境意識に乏しく、また国境地域の保全や振興に長年無関心である。 このことを現状において、研究者や実務家ではなく一般市民を軸に国境問題に対応する活動を目的している。 国境のまちおこしや観光資源の調査と発掘を行い、地域活性化にも携わっている。

4. 北方領土問題解決のための環境整備を目的として、日本国民と北方四島在住ロシア人が旅券(パスポート)、 査証(ビザ)なしで、外務大臣の発行する身分証明書などにより相互に訪問する。ホームビジット、文化交流会、 意見交換会等を通じて、相互の理解と友好を深め、ロシア人住民の北方領土問題に対する理解を促すとともに、 日本に対する信頼感の醸成が図られている。平成4年度に事業が開始されてから、これまで日本側と四島側双方合わせて、 のべ16,393人(平成22年3月31日現在)の人が交流を深めている。 この事業の対象者は、北方領土に居住していた者、その子供及び孫並びにその配偶者、北方領土返還要求運動関係者、 報道関係者、訪問の目的に資する活動を行う学術、文化、社会等の各分野の専門家等となっている。

(参考文献)
・『境界から世界を見る:ボーダースタディーズ入門』 岩波書店
・内閣府ホームページ 北方対策本部

[2016.4.25]掲載


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