JCBS:NPO 国境地域研究センター:Essays
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「国境を越えない」オホーツク縦断国境体感ツアーから       [pdf版]  

武田 泉(北海道教育大学)  

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◆プロローグ
  国境地域研究センター(JCBS)で、「国境を越えない」オホーツク縦断体感ツアーが挙行されることを耳にした。 筆者は2015年6月にも、久しぶりに同センター主催のサハリンツアーに参加したが、 それは稚内・コルサコフ間の定期フェリーが最終運航の可能性があったからでもある。 そうしたこともあり、馳せ参じることにした。今回は道内でもあり、筆者が数十年前に道内へ移住後に各地で見聞してきた、 埋もれた「国境」を「体感」する遺構の見学も含めて欲しいと、代表者である北大の岩下明裕教授にお話したところ、 ご許諾を得ることが出来た。このため、筆者なりの資料を携えて、同ツアーに加わることにした。 特に本ツアー後半の道東の知床半島から道北にかけての雄大な弧を描くオホーツク海岸は、 そのロシア語起源の呼び名自体には日本離れしたエキゾチックな響きがあり、1991年に現地を訪れた司馬遼太郎は、 「街道をゆく38 オホーツク街道に」に様々な事物について、感慨も寄せている。
  但し2015年の秋の道内では、1週間毎に台風等の接近で大荒れの予報出て、中止も覚悟しつつ、 ヒヤヒヤしながら前日に根室へと向かった。と、前置きが長くなったが、根室から今回の行程を進めてみたい。

◆1日目:根室から中標津まで
  前夜からの暴風が吹きすさぶ根室の街であったが、無事に一行を乗せた中標津への飛行機は飛んでくれたようで、 予定通りバスは根室へ向かっているとのこと。筆者らは根室駅で合流し、 一行はまず根室半島のオホーツク海側をチャシ跡群へと向かった。

チャシ跡 クナシリメナシの戦いの日本人慰霊碑など

ここでは、根室市歴史と自然資料館の学芸員や毎日新聞の本間浩昭記者の説明があった。このチャシ跡は16~18世紀に アイヌ民族が構築し、戦闘時の砦や和人との談判、さらには祭祀を行う場であり、クナシリメナシの戦いとも関連していると いう。暴風のおかげで海には白波が立っていた。
  次に納沙布岬で昼食。岬にはクナシリメナシの戦いの日本人慰霊碑が建立され、また様々な碑が建てられており、 白波の向こうには貝殻島灯台や水晶島がうっすらと見えた。北方館では四島についての説明を受けるが、 戦前の島の様子と近年の交渉停滞について聞くことができた。次にバスは太平洋側を進み、筆者も車窓説明を開始。 まず根室拓殖鉄道跡やトーチカ跡、根室飛行場跡を車窓説明。なお同飛行場は、米国の飛行家リンドバーグが世界一周で飛来し、 同時に北大構内が舞台となった宮沢レーンスパイ(軍機保護法違反)冤罪事件で被疑事実の一つとされた場所でもあった。
  次にバスは、根室市街地の手前でJR東根室駅とJR花咲駅を訪問。前者は日本最東端駅として既に有名なので、 最近は観光バスも止まるが、2016年3月に廃止される花咲駅へは、バス乗務員も初めて訪れたと言う。 旧車掌車改造の無人駅舎内には駅ノートが置かれ、「廃止は残念」「悲しい」等の書き込みがされていた。 その後は根室市内の各種の施設を、立て続けに訪問する。 花咲港インフォメーションセンターには上陸したロシア人船員が多く訪れるとされ(写真4)、 根室市歴史と文化資料館にはかつて北緯50度に置かれていた旧日露国境標石等が所蔵されていた。

JR 花咲駅 インフォメーションセンター

道立北方四島交流センター(ニホロ)では、終戦時のソ連軍侵攻の様子を緊急連絡する当時の島からの電文等が展示され、 対国後島の海底ケーブル送信所跡では、同保存会の久保さんから最近の保存状況について説明を受けた。 市内の見学が終わる頃には、陽が沈み始めたため、 その後通った根室フットパスや奥行臼の遺産群(駅逓所、国鉄駅跡、殖民軌道車両)他については、 暗くなったので説明を省略せざるを得なくなった。 そして、今宵の中標津の宿泊地へ到着し、密度の濃い1日目を終了した。

海底ケーブル送信所跡(根室市ハッタリ浜)

◆2日目:中標津から網走まで
  中標津を出発するが既に天候は回復、まず上武佐ハリストス正教会を訪ねる。 この純酪農地帯の片田舎になぜか忽然と立つ教会は、戦後色丹島から引き揚げてきた北千島アイヌ民族の信徒に 所縁があるという。彼らは1875年の樺太・千島交換条約の際、日本国籍を選んで北千島に残留した先住民97人の末裔であり、 後に日本政府により色丹島に強制移住を余儀なくされている。 祭壇前には手首が欠けたキリスト像があり、千島アイヌに降りかかった引揚げ時の混乱と苦難を今に伝えていると言う。 当日は関係者不在のため、外からの見学となった。
  次に標津市街地の北方館を訪問し、国後島を中心に語り部の方から説明を受けた。 根室もそうだが、これらの道東に点在する北方領土啓発施設は、語り部の人にガイドしてもらわない限り、 展示品が立派であっても、なぜか手作り感が多少希薄なような気がした。それに対し、 以前筆者が出かけた道外で引揚者が多く居住した富山県黒部市生地にある「漁業資料館」や、 地元の高志野中学校内のような、北方領土関連の手作り感溢れる資料室が存在する。 このため、相互に資料展示方法を検討し合ったら如何であろうか、などと考えてしまった。

上武佐ハリストス正教会 根室標津駅転車台

  その後、北方館すぐ近くの根室標津駅跡に唯一残された転車台と、 バスで根北峠を越えた根北線(未成線)のコンクリートアーチ橋(幾品川橋梁、通称「渡らずの橋」)を見学。 これらの鉄道は、対ロシアを考慮して建設された路線でもあるが、一方でだんだんと「鉄分」(鉄道っ気)が 出てきてしまった。小清水原生花園で休憩後、かつてDMV(デュアル・モード・ビークル;道路も鉄道も走れる両用車両) 実験運行を行った藻琴駅前を過ぎ、網走に入って昼食をとる。
  そして午後は、道立北方民族資料館と博物館網走監獄を比較的時間をかけて見学した。 前者では諸民族の展示が時代別ではなく、その特徴を空間・事物別になされていた点が特色であった。 後者では、監獄系博物館で唯一とされる学芸員の方からのスペシャルガイドにより、 通常来場者が気付かない点まで詳細に解説していただいた。

脱獄囚を再現!

  その後多少暗くなり出した夕方に、網走湖を望む天都山の中腹に立てられた ウィルタ慰霊碑(樺太少数民族で戦後「引揚げ」た人たち)と資料館(ジャッカドプニ)跡(車窓見学)を見学した。 この日も、盛り沢山の見学だったが、豪華な夕食と温泉に入浴し、夜はまどろんでいった。

ウィルタ慰霊碑


◆3日目:網走から稚内まで
 翌日は網走から稚内までと移動距離が長く、明るいうちに宗谷岬に到達できるか、 という目標の中、出発。この日はオホーツク海岸線を横にずっと進んで行くわけだが、 同時に鉄道廃線跡・未成線跡を歩んでいくことになり、「鉄分は濃く」ならざるを得ない。 まずは北見市内の常呂町カーリングホール。数多くのオリンピック選手・トップ選手を輩出したカーリング場で、 国際大会開催規格準拠、国内最大の6シートを備えた専用屋内施設である。案内のもと競技スペースを見学し、 過去の選手の活躍を示すパネルも所狭しと掲載されていた。岩下教授の強い意向で組まれた見学地であったが、 多少「国境」からは離れたものの、気分転換にはうってつけの見学となった。

五輪選手が指導! 北見カーリングホール サハリン州旗(ユジノサハリンスクにて)

  さらに進んで、湧網線計呂地駅跡で休憩、紋別ではオホーツク科学センターで、 極寒と流氷の科学的特徴について見学し、昼食を取る。 午後は、廃線鉄道跡(一部未成線)では名寄線・興浜線・天北線跡を通っていくわけだが、 これらを結んで「オホーツク本線」とする構想があったが、実現することなくそのほとんどの鉄路が廃止され、 消えていっている。仮にソ連が北海道北部を占領していたら、幹線鉄道になった筈であろうが、 これは現在のサハリン州旗がサハリン島と千島列島から北海道の部分を抜いた地図のデザインで、 稚内と根室を結ぶラインが重要であることからも理解されるだろう。 日本側ではこのデザインはほとんど知られていないが、これも国境地域が持つ特徴なのかもしれない。 バスは1度道の駅(枝幸町岡島)で休憩しただけで、どんどん北上していく。
  空はにわか雨模様となった宗谷管内に入った頃、興浜北線の豊牛駅跡や浜頓別の市民風車(車窓)を見学、 猿払に入り飛行場前駅跡(仮乗降場)は、説明に夢中となり残念ながら通過してしまった。 そして国道から少し海側に入ったところの猿払電話中継所跡と道の駅さるふつに隣接する インディキルカ号遭難者慰霊碑と日ソ交流展示室、旧陸軍猿払第二飛行場跡の村営牧野を見学。 前者は、1934年に北海道と樺太を海底ケーブルで結び、初めて樺太と電話が繋がるようになったが、 終戦後は樺太との通話が遮断されたため、戦後は無用の長物となり、近年はホタテ漁の邪魔になったと言うもの。後者は、 1939年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁し転覆した際に、 700名以上の犠牲者を出したと言う世界海難史上の大惨事に、地元村民総出で約400人を救出したもので、 猿払村では現在もサハリンとの姉妹都市交流を行っているとのこと。このあたりからは、 うっすらとサハリンの島影を望むことも出来、また厳しい気象条件を反映して国道には避難シェルターが作られていた。

豊牛駅跡 猿払電話中継所跡

インディキルカ号遭難を解説する日ソ交流展示室

 その後、ようやく、明るいうちに宗谷岬に到着。 岬背後の高台にある各種の記念碑を見学し、その後暗くなりかけた稚内市市街地の一角に、 初代稚内駅跡を見付けることができた。稚内への鉄道敷設には複雑な経緯があり、 まずオホーツク海側の浜頓別経由(後の天北線、廃止)が開通し、その後遅れて天塩川に沿う現宗谷線が開通した。 稚内市内も、稚内駅・南稚内駅・稚内港駅・稚内桟橋駅が存在し、 初代稚内駅は現在の南稚内駅に相当し、現在複合施設に改築された稚内駅が当初は稚内港駅と称する等、 駅の変遷はかなりややこしくなっている。そうこうしているうちに、無事に宿泊のホテルに到着した。

◆4日目:稚内市内
  最終日となった4日目は、稚内市内見学。まずすぐ目の前のドーム型防波堤へ向かう。 戦前まで樺太と結んでいた稚泊連絡船の乗り場には、先に説明したとおり稚内駅から引込み線が続いていて、 稚内桟橋駅が併設されていた。戦後はSLが保存されていたが風化が進んだため、現在は動輪のみが残されている。 こうして、樺太の記憶が薄らいでしまい残念なことである。
  次は稚内公園中腹の氷雪の門へ。珍しくサハリン本島とは別の方向にモネロン(海馬)島を眺めることができた。 そしてノシャップ岬へ。4日間同行してきたオホーツク海とも、これでお別れである。 そして日本海に利尻礼文を眺めながら、今度は南下するわけだが、「てっぺん」の街にふさわしい。 次の見学地の抜海駅(無人駅)を多少見失う所であったが、風雪に耐えてきた木造駅舎は、 映画「南極物語」のロケ地でもあるとのこと。そして再度市街地内に戻り、副港市場内の樺太展示コーナーにて、 今回の濃厚なツアーは無事に終了し、一行は解散した。

防波堤ドームの動輪 JR抜海駅

◆エビローグ:稚内から札幌までと
  その後筆者は、ツアーで知り合った札幌まで戻る参加者の一人と、今度はレンタカーで国境体感ツアーを続行した。 その後通ったのは、天北線沼川駅跡、稚咲内(樺太アイヌ所縁の地)、羽幌線豊岬橋梁跡、築別駅跡、 羽幌簡易裁判所跡、苫前と小平の樺太疎開三船遭難慰霊碑、そして暗がりの雄冬岬を通って、暗闇の中、 石狩市来札墓地の樺太アイヌ慰霊碑を見学して、ようやく札幌帰着。筆者の長い長い「国境体感の旅」は、 ここに幕を閉じた。
  今回、ツアーを一部案内してみて、やはり道北と道東は一部の有力観光地を除くとマイナーなところが多く、 自然環境や特徴的な人々の生き様、などという背景となる知識が必要となろう。 それにもまして、日本国内ではどうしても疎遠でなる「国境」や「樺太・千島の記憶」について、 道内のみならず全国で伝承される必要ではないかという思いに、改めて駆られた次第である。

[2016.3.15]改訂 [2016.3.9]掲載


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