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Essays

中露国境紀行2018
  戦争記憶と向き合う旅

黒岩幸子(岩手県立大学、JCBS会員)    [pdf版]
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 3年目の中露国境紀行は、いくつもの戦争記憶をたどる旅だった。すべてを語るには旅程が長く訪 問先も多く、旅人たちも濃すぎるので、ピンポイントで紹介したい。

写真1:アムール川遊歩道の像

黒河とブラゴベシチェンスク  

今回の中露国境は、ハバロフスクから約 900km 上流のアムール川(黒竜江)だ。ハバロフスクでは対岸が見えないほど大きな川も、 ここまで来ると川幅が 600~800m に狭まり、向かい合う黒河とブラゴベシチェンスクからは対岸の街が手に取るように見える。
  30 年も前の話だが、ソ連邦解体のころは開かれた中露国境としてこの 2 つの街が日本でもよく話題になった。 怪しげな中国人担ぎ屋たちがアムールを渡るニュース映像を覚えている人も多いだろう。 そのころ黒河へ行ったというロシア人に聞いた話では、どこも薄汚く、 タオルなど日用品はすべて自分で持ち込んだものを使ったという。
  ロシア人さえビビらせたその田舎町は、今やビルが立ち並ぶ立派な中堅都市になり、 アムール川から両岸を見比べても中露どちらなのか一目ではわからないほどだ。 中国の目覚ましい経済発展の底力は、黒河の街を歩くとさらによく見える。 人が多く活気に満ち、建設工事が進んでいる。 川沿いに整備された遊歩道には、子どもを題材にしたユーモラスな像がいくつもあり、 老親の散歩らしい車椅子を押す人たちの姿も見かけた。 アムール川を埋め立てて造った快適な「健康主題公園(大島植物園)」も完成間近だ。
  黒河に入る前日にハルビンで受けた封安全さん(黒竜江省社会科学院ロシア研究所副研究員) のレクチャーによると、かつて中国は、見習うべき先進国としてソ連を見上げていたが、 もうロシアは中国の「兄」ではなくなったという。 確かに中露は対等のパートナーとして共存する時代に入ったようだ。

写真 2:アムール川を下る中国船

  日本人観光客が珍しいせいか、私たちは中露両岸で歓迎され、双方で対岸へのライバル意識のようなものを感じた。 「明るいのは街の表側だけで、一歩裏通りに入ると真っ暗」、「けっこう犯罪が多く、治安が悪い」、 「こちら側に来ると安心して暮らせる」等々。同じようなコメントが双方向に飛び交うのが面白い。 賑やかな黒河と落ち着いたブラゴベシチェンスク、軍配がどちらに上がるのかは旅行者の好み次第だろう。
  ところで、黒河から対岸に渡る際に中国軍のものと思われる船が次から次と等間隔でゆっくりと川を下ってゆくのを見た。 どれも同じタイプの船で、前後に砲身が見える。単なる移動なのか、パトロールなのか、 短いクルーズを楽しんでいる私たちには奇異に映り、一筋の川に引かれた国境線の危うさを垣間見るようだった。 そして実際に、その後の旅は、その危うさを教えてくれた。

 

アムール川が満ソ国境だったころ

写真 3 日本人抑留者が住んでいたバラック

  今では気軽に渡れるこの川は、かつては満州国とソ連邦の緊張した国境線だった。 第二次世界大戦末期の 1945 年 8 月 9 日、 ソ連軍が大挙して満州に侵攻したときに渡河地点の一つとして使われたのがブラゴベシチェンスクだ。 ソ連第二極東方面軍はアムール小艦隊と共同作戦で黒河に上陸して満州内部に攻め込んだ。
  そして日本の敗戦後は、日本人捕虜が逆方向に渡河することになる。 武装解除された将兵たちは、1000 人ずつの労働大隊に編成されて、黒河まで何日も徒歩で移動し、 そこから艀でブラゴベシチェンスクへ送り込まれた。 その後は列車で奥地の収容所に振り分けられ、過酷な抑留生活を強いられる。 ブラゴベシチェンスクやその周辺の村に留め置かれて抑留された人もいる。 街には、日本人捕虜が働かされた製材工場やビール工場が残っていた。 また彼らの宿舎だったトタン屋根のバラックに今も人が住んでいるのには驚いた。(写真 3)
  なお、日本で使われる「シベリア抑留」という言い方は不正確だ。ブラゴベシチェンスクがあるの はアムール州で、シベリアではなく「ロシア極東」だ。それに抑留者はシベリアだけでなく、カムチ ャツカ半島、サハリン、千島列島、さらにはモンゴル、北朝鮮と広大な地域に収容されていたから だ。それはともかく、私たちは「シベリア抑留」よりさらに古い歴史へ向かった。

イワノフカ村
8 月 29 日にブラゴベシチェンスクから東に約 30km 離れたイワノフカ村を訪ねた。森や湖に囲ま れた小さな村だ。私たちを迎えてくれた村役場の人たちが、5 日前にも「日露合同慰霊祭」のために 日本人グループが訪れたと教えてくれた。  
  1919 年 3 月 22 日、ブラゴベシチェンスクに駐留していた日本軍の支隊が、パルチザン討伐と称 して、子どもを含むイワノフカ村の住民 257 人を殺害した。そのうち 36 人は屋内に閉じ込められて 焼き殺されている。
  当時のアムール川は、中華民国とロシア革命後の内戦期のロシアとの国境だった。 ウラジオストクから上陸した日本軍は、奥地まで侵攻して干渉戦争をし、反革命を後押しする謀略に加担した。 ついでに言うと、「シベリア出兵」も紛らわしい名称だ。 戦ったからには「出兵」ではなく「戦争」のはずだし、日本軍はシベリアだけでなくロシア極東一帯に駐屯していたからだ。


写真 4 イワノフカ村の哀悼の碑

  ソ連による国際法違反の抑留の犠牲者である日本人が、 かつての日本軍による戦争犯罪の犠牲者の慰霊を行なっていることを初めて知った。 村民虐殺事件を知った抑留者たちは、1995 年にここに「哀悼の碑」を建てた。(写真 4)
  村役場に展示してあったこの碑についての冊子から、 斎藤六郎さん(全国抑留者補償協議会会長)の「追悼のことば」を抜粋する。
  我が国を訪れたエリツィン大統領は、宮中晩餐会の席上この(シベリア抑留)問題で謝罪し、 我が国の天皇は「只今の大統領のお言葉を感動をもってお聞きしました。」 と答礼され、日本の世論もこれを支持いたしました。
今日、イワノフカ村に建立された追悼碑は、エリツィン大統領の謝罪に答えるものです。 私たちは戦争の遺産を取り除き、両国民の信頼のもとに講和条約を締結し、 二十一世紀に向けて長き平和を祈念するものであります。 
  ここに、犠牲になられたイワノフカ村民の方々に、心から謝罪し、ご冥福をお祈りする次第であります。
  1993 年に訪日したエリツィン大統領が、シベリア抑留について謝罪したことを覚えている日本人がどれだけいるだろうか。 その大統領も斎藤六郎さんも故人となり、天皇の生前退位も決まったが、平和条約は締結されぬまま、 日露関係は「哀悼の碑」の願いに逆行している。
 

アムール川が清露国境だったころ
8 月 30 日、再び川を渡って黒河に戻った私たちは、川沿いに南へ 30km 離れた愛琿(現在は黒河 市の愛輝区)へ行った。あの愛琿条約(1858 年)の締結された場所、つまり、ロシアが清国から広 大な領土を奪う契機となった因縁の地だ。  
  今回の旅は天候に恵まれ、この日も爽やかなドライブで目的地に到着し、2011 年に新装オープンしたという、 どでかい愛輝歴史陳列館に入場したまではよかったが、その後はちょっと引いてしまった。 愛琿の長い歴史を紹介する数々の展示の中で、 1900 年のブラゴベシチェンスク虐殺と愛琿城陥落にあまりに力が入り過ぎていたからだ。
  そのころ両岸で対峙していたのは、清国とロシア帝国だ。 ブラゴベシチェンスクでは多くの中国人下層労働者が働き、隣接する江東 64 屯には中国人農民が暮らしていた。
  1900 年 7 月、義和団事件が発端となり、ブラゴベシチェンスクのロシア軍が乳幼児から老人まで数千人の中国人を殺害したという。 その後は 64 屯の中国人も追い出し、翌 8 月には対岸の愛琿城を焼き払ってしまう。
  川に追い詰められて殺される人たちの様子が描かれたパノラマが音響とともに映し出されるホール、 陥落直後の愛琿城内に血だらけの蝋人形が横たわる展示室。 きちんと史料批判したうえでの展示とは思えない、そもそも史料そのものが少なそうだし。
  それでも見学後に懇談した館長は自信満々の様子だった。 冊子やら絵葉書やら立派なお土産もいただいた(虐殺パノラマの大型絵葉書には閉口)。 その冊子を後でめくってわかったことは、愛輝歴史陳列館の設置が決まったのは、 珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ衝突が起きた 1969 年のことだ。 1975 年の開設当時は「愛輝反修教育展覧館」、つまり、ソ連の修正主義と闘うための博物館だった。 1997 年には中国共産党中央宣伝部から「全国愛国主義教育模範基地」の称号を授与されている。
  「反ソ愛国」的な展示傾向がわかるような気もするが、愛輝は 2011 年に「AAAA 国家級旅遊景区」 に認定され、観光地としての整備も進んでいるようだ。 この展示ではロシア人は呼び込めないのではと心配になる。 なお、展示にはロシア語の解説もあったが、ロシア人にはまだ公開していないそうだ。
  厚労省で遺骨収集の仕事をしている友人に帰国後に教えられたのだが、中国は、 中国国内のソ連兵の墓地は手厚く維持しているが、帝政ロシアの兵士の埋葬地は放置しているそうだ。 20 世紀初めに中国領土で覇権を争ったロシア帝国と日本帝国のような侵略者の墓守をするつもりはないらしい。 清国を侵略したロシア帝国軍と中国解放に協力したソ連軍とを別個に扱うということだろう。

写真 5 愛輝から対岸ロシアを眺める

  博物館の裏手のアムール川岸に出て、この辺りでもっとも川幅が狭いところを見せてもらった。 対岸のロシアはボートで一漕ぎすれば渡れる距離で、その一帯に農地を求めた中国人の 64屯が広がったのも納得できる。(写真 5)
写真 6 両岸から進む橋の建設

  川の国境線を時間軸で遡ぼってみれば、中露、中ソ、満ソ、清露と両岸の国は目まぐるしく変わっていた。 中国とロシアが 40 年の交渉の末に 2004 年に国境確定したのは、 数々の流血事件を経験した国境地域を安定させようという意志が双方に働いたからだろう。 現在、ブラゴベシチェンスクと黒河を結ぶ橋の建設がアムール川の両岸から進んでいる。(写真 6)

旅順の日本人・韓国人・ロシア人・中国人  
  アムール両岸を歩く国境の旅の後に、さらに大連、旅順まで足を伸ばした。 言わずと知れた日露戦争の舞台、また戦争記憶と向き合わねばならない。
  20 年前に私が訪ねたころは、軍港のある旅順市内は外国人立ち入り禁止で、 203 高地と水師営だけを見物して帰った。 今は制限がなくなり、市内にある旅順監獄(旅順日露監獄旧跡博物館)、旅順博物館、 かつての旅順駅舎などを見ることができた。

写真 7 満鉄の旅順駅舎

  また、東鶏冠山北堡塁を歩き、203 高地から旅順港を一望できたのもよかった。前回は曇っていて港がどこなの か、さっぱりわからなかったからだ。あんなに遠くまで大砲を飛ばしていたとは知らなかった。(写真 7, 8)
  北堡塁の案内を始めたガイドさんは、「日露戦争は中国にとっては日露両国から侵略された歴史」と言い切る。 堡塁建設の過酷な労働に使われた中国人人夫には大量の犠牲者が出たという。 『坂の上の雲』を読んで妙な明治ロマンチシズムに陥っている日本人に、 日露戦争の実態を教えて再教育するプログラムが準備されているかと期待したが、 あちこち回るうちにその期待はしぼんでいった。
写真 8 203 高地から旅順港を眺める

  それどころか、どうも司馬遼太郎にあやかろうとする仕掛けが多かった。 どこの解説にも『坂の上の雲』のエピソードが出てくるし、乃木将軍の息子の戦死地も観光コースに入っている。 水師営会見所では、案内の女性がお土産の売り込みまでするのに興ざめした。 満鉄ロゴ入りの縁の欠けた急須とか、時計とか、当時の雑誌と、どれでも1点1万円ぽっきり、 売り上げは会見所の修繕費に充てるそうだ。
  会見所には乃木・ステッセル会談の行われた部屋のほかに、日露戦争に関する展示室もある。 当時の日本軍がこの辺りの中国人の農家を奪ったり、取り壊したりしたことがわかる。 この会見所も元は大きな農家を接収したものだ。展示には日本の軍人が、 スパイ容疑のかかった中国人の農民女性の首をはねようと刀を振り上げているショッキングな写真もあった。
  ところがこの写真、ネガの表裏を間違えて現像している。正しい写真は旅順監獄博物館に展示されていた。 (会見所の写真は左右逆なので、映っている日本軍人がみな左利きで不自然)。 どうも史資料がぞんざいに扱われているようだ。
  これでは多くの日本人の歪んだ日露戦争観が矯正されない…と思ったが、 矯正されないのは日本人だけでもなさそうだ。 韓国人観光客が集中するのは安重根が収監されていた旅順監獄で、ここには彼が入れられた特別室、 処刑場所、達筆だった彼の書の展示室などがある。伊藤博文を暗殺した安重根は韓国のヒーローなので、 修学旅行の生徒たちまで来るそうで、ずいぶんと手厚い展示になっている。
  ロシア人が主に訪れるのは、戦死したロシア人の埋葬地だとか。 日露戦争は、朝鮮半島や満州をめぐる日露の権益争いで、日本の朝鮮併合、満鉄経営など、 その後の東アジア情勢を大きく動かす契機になった戦争だ。 日本、ロシア、中国、朝鮮に深く関わっているのだが、旅順を訪れる人たちは、 それぞれ自分の気に入りの過去だけを切り取って反芻して満足するようだ。
  やや期待外れの旅順にくらべ、清朝から日本の満州支配、 第二次世界大戦以降の大連をバランスよく展示していた大連現代博物館(大連市)が充実していて勉強になった。

旅の終わりに
 

写真 9 アシンメトリーな左右の靴下に注目
戦争の話ばかり書いてきたが、もちろん、旅行中ずっと暗い話題で過ごしたわけではない。フツー の観光名所も訪ねたし、毎昼毎晩みんなでテーブルを囲んでとる食事は、話が尽きず楽しかった。た だ、旅も 1 週間を超えると次第に集中力が弱まってくる。 帰国前日の大連観光でガイドさんの説明をよそに注目されたのは、O さんの足元だった。斬新なデ ザインの靴下?と思ったら、誤って 2 足の靴下の片方ずつを洗濯したので、写真のようになったそう だ。(写真 9) 
  連日の移動と飽食でさすがに私は疲れがたまったが、今回のメンバーはやたら辺境に強い人が多く、 誰も弱音を吐かない。ホテルが夜から断水と予告されても平然と外出、部屋のバスタブに水を貯めてきたから大丈夫と言い放つ。 ホテル前の道路工事のせいで周囲の住宅街はすでに断水、ホテルも貯水を使い果たしたら終わりだというのに。
  小心者の私はホテルに帰るとフロントに直行、断水はどうなったか尋ねたところ、服務員のお嬢さんは、 「今のところ客室からクレームがないから大丈夫じゃないかしら」とこちらも悠然としていた。(結局水は止まらず命拾い。)
  ところで、大連でも旅順でも日本人を当て込んで整備したのに肝心の日本人観光客が激減しているという嘆きを何度も耳にした。
  不景気なのか、海外旅行に飽きたのか、昨今の反中感情なのか、確かにあまり日本人を見かけなかった。 。
写真 10 クロンシュタットのツシマ海戦犠牲者の碑

ペテルブルグに帰宅
  大連からは短いフライトで日本なのに、私と夫はユーラシア大陸を超えて 7 月半ばから滞在しているペテルブルグに戻った。 しかも、大連からソウル、モスクワ経由の大回で。
  実はペテルブルグも日露戦争と関わりが深い。 日本海海戦(ロシアではツシマ海戦)で壊滅的打撃を受けたバルチック艦隊が出撃したのは、 この街に近いクロンシュタットからだ。 そこには1905 年 5 月 14-15 日のツシマ戦海の犠牲者の碑があり、 教会の壁には戦死者の名前が刻まれている。 私たちが借りていたアパートのそばには、「ポルト・アルトゥール(Port Arthur、旅順港)」という名の高級海鮮レストランがあった。
  ペテルブルグ(当時はレニングラード)は、第二次世界大戦期に 60 万人の犠牲者を出してドイツ軍の 900 日間 包囲に耐えた「英雄都市」でもある。したがって、ペテルブルグ市民にとっての第二次世界大戦は「独ソ戦」と同義だ。 そこで大戦末期の「日ソ戦」の話をしても、はぁ?という感じで何があったのかほとんど知られていない。
  最近リニューアルした市内のロシア史博物館に行って戦争に関する展示を見ていたら、第二次世界 大戦の結果、ソ連に「南サハリンとクリル諸島が返還された(下線筆者)」と書いてあった。領土問 題解決への道のりは遠い。
  ほとんどのペテルブルグ住民にとってシベリアやロシア極東は、遠い外国のようなものだ。 今回の旅の話を興味深そうに聞いているアパートの家主さんに、 これまでに行ったロシア最東端はどこか尋ねてみたら、ずいぶん考えた末に「ペンザ」と返ってきた。 ウラル山脈を越えていないことは容易に推測できたが、ペンザとは…。 南には離れているが、緯度ではペテルブルグとたいして変わらないじゃないの。
  ペテルブルグ発着の中露国境紀行はほんとに遠かった。次からは絶対に日本から参加します。

[2019.3.2]


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