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   五島〜済州:表のボーダー/裏のボーダー    [pdf版]

天野 尚樹(山形大学)
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 2018年10月28日、五島列島福江島での最初の朝、起き抜けに真っ先に向かったのが五島拘置支所である。 わたしはもともと、ロシア帝国時代の19世紀サハリン島史の研究から出発した。当時のサハリン島は流刑地だった。 ただし、そういう学問的興味から拘置所をみにいったのではない。

長崎刑務所五島拘置所の現在
数年前に新しく建て替えられる前、いまと同じ場所に立っていた五島の拘置所の設計に関わったのが、 じつはわたしの母方の祖父である。祖父は法務省営繕課に勤務し、全国各地の刑務所や拘置施設の設計・建築に携わっていた。 祖父は、母が若い頃に亡くなっており、当然わたしも会ったことはない。 祖父は、建築がはじまると現場監督として現地に長期滞在することが多かった。 そのなかで、五島に長くいっていた、ということは、子どもの頃の母の記憶によく残っていた。 母からその話を聞いていたわたしは、念願かなって、ようやく祖父の仕事の面影の前に立つことができた。
  島というのはさまざまな顔をもつ。 複数の陸地、ときには国境を跨いだ陸地間を接続する交通の結節点になることもある。 また、本土から切断された空間として、国家の中央からみれば辺境のさらに向こう側、異域とみなされることもある。 かつての歴史においては、帝国のさらなる勢力拡大の拠点として踏み石にされることもあれば、 本土を守るための捨て石にされることもある。異空間をつなぎ、あるいは、異空間として切断される。 異空間をつなぐ出入口を国家の表のボーダーとすれば、異空間として島を本土から断ち切る線は裏のボーダーといえよう。 その地政学的立ち位置は、島民の主体的行動の発揮によって活かされることもあれば、 国家中央の意思次第で決定されることもある。
  よく知られているように、五島列島は不思議な群島で、地理的にみれば親島というべき大きな島だけでも7つある。 福江島はその南端に位置する最大の島で、隣接する久賀島など周辺の島々と五島市を構成している。 一方、北端の宇久島は本土の平戸市に帰属し、行政区分状は五島列島には含まれない。 本土との関係も、福江島は長崎市と、宇久島は平戸との交通が昔から強い。
  ボーダーツーリズムの醍醐味が、表のボーダーを相互に跨いでみることで、国境によって異空間とされたふたつの場に、 国家の意思では切断しきれないつながりを発見することにあるすれば、 今回の五島〜済州島ボーダーツーリズムで発見されるべきつながりのひとつは、宇久島に発する。
日出峰の麓でアワビを売る海女

  島の主体性が最も発揮されるのが、島民たちの流動的な跨境行動である。 宇久島の人びとには、インドネシアのスラウェシ島でヤシ園を開拓したり、 朝鮮半島東岸の漁場を開発したりするなど、その積極的流動性を世界各地で活かしてきた。 そのうちのひとつが、済州島でのアワビ漁である。宇久島出身の三宅道次郎という人物が1890年に、 潜水器を使用したアワビ漁を済州島に導入したといわれる。済州名物のひとつである海女が採ったアワビには、 ボーダーを越えた五島とのつながりが伏流している。
牢死者の慰霊碑

  五島と済州は、裏のボーダーがもたらした悲劇の歴史を共有する場でもある。 10月29日、わたしたちは福江港から久賀島にむかった。 訪れた牢屋の窄殉教記念教会は、1868年に久賀島のカトリック教徒約200人が弾圧のために押し込められた12畳ほどの 牢屋跡に建てられた教会である。拷問や飢えによって、合わせて42名が亡くなっている。
  一方、済州島には、1948年から1954年にかけて、共産主義者と疑われた済州島民が大量に処刑されたいわゆる4・3事件がある。 殺害されたひとの数は6万人を超えるといわれる。 10月31日、ツアー最終日にわたしは、旅仲間3人で連れ立って別行動をとり、済州4・3平和公園を訪れた。 そこで展示された弾圧の様子は、座ることもできない空間に押し込められた久賀島のカトリック教徒を、 ボーダーを越えて想起させた。
4・3平和公園の展示

  信じているものが異なるだけで、ひとは同国民のあいだにボーダーを引き、異人とみなした人びとを抹殺する。 それが島で起こったのは、本土からみて島が異域であるという国家の内部に引かれたボーダーが影響している面が大きい。 その底流には、本土から島への差別的眼差しが注がれている。こうした裏のボーダーが五島と済州には共有されている。
  4・3事件は、当時28万人いた済州島の人口を3万人ほどにまで減らしたといわれる。 殺害されたひとに加え、多くの島民を避難民にした。避難民の多くが現在の大阪市生野区に逃れたことはよく知られている。 いま済州島は人口60万を超える。わたしたちが宿泊した新市街は、有名ブランドショップも多く並び、にぎわっている。 酒を飲まないわたしが夜訪れたカフェは、店の雰囲気も、売りのロールケーキも相当に水準が高かった。 日本ではまだ珍しいアウトドアブランドの路面店で一目惚れしてキャップも買った。 こうした夜の過ごし方は、辺境の島にいることを感じさせない。
4・3平和公園殉死者の慰霊碑

  済州島の発展は、ユネスコ世界自然遺産群などを資源とした観光による面が大きい。 都会的な面と、特徴的で豊かな自然、というギャップを備えた済州島は、多様な人びとを呼び寄せる魅力があろう。 その発展の背景には韓国本土だけでなく、中国資本の積極的な誘致もある。 しかし、離島振興に力を尽くした民俗学者・宮本常一もいうように、観光は水物であり、 また島民を島から追い出すことにもなりかねない。 観光に依存しすぎず、水陸両面の生産力を高めることが長期的には島の発展には必要だと指摘する。
  宮本の思想はいまでも重要性を失ってはいまい。 平和公園にいくタクシーの運転手は、叔父が4・3事件で殺害され、きょうだいなど親族が大阪に逃れたという。 いまや日本生まれも多くなった親族のもとを頻繁に訪れるなかで、日本語もかなりできるようになった。 彼がいうには、いまの済州島の物価、とりわけ不動産価格の高騰はすさまじいという。 子どもの家を購入するのはとても困難で、そうした面が若い世代の流出をうながしていることもあるようだ。
判明している限りの殉死者の氏名が刻まれている

  もっとも済州島は、海産物だけでなく、ミカンや豚肉など陸の名産品も生産している。 こうした生産構造は五島も共通している。宮本常一は『私の日本地図 五島列島』で、 1960年代初頭、福江島で畜産をはじめようと奮闘している若者の姿をあたたかい眼差しで描いている。 いまや、五島豚・五島牛はブランド化し、有力な名産品となっている。 戻ってきた福江空港のレストランで食べた五島豚は、済州島で豚肉を食べ忘れたことを忘れる満足なおいしさだった。
  島の表のボーダーが活発に機能するための重要な条件のひとつは、 接続を複線化することであろう。済州島は韓国本土や中国との経済的結びつきに加え、 最近では、とりわけ研究者のレベルで沖縄との結びつきを積極的に推進している。 五島も、長崎本土だけでなく、わたしたちが福江と往復した福岡、さらに、遣唐使の中継地であった伝統を復活させるような 中国との結びつき、そしてもちろん済州島など、360度接続可能という島の地勢的条件を活かした可能性は大いにあるだろう。

[2019.1.27]


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