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抜群に面白かった「サハリン国境紀 

      

児矢野マリ  

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 「サハリン国境紀行」は、抜群に面白い旅だった。ここで見聞きしたこと、感じたこと、学んだことは、一生忘れないだろう。わが家の夏休み企画としても最高だった。休暇をとって夫とともに参加し、愉快な人たちと出会い、貴重な体験をした。知的好奇心と探検心をくすぐり満たすプログラムが、ギュっと詰まっていた。今でも、わが家の食卓ではこの旅行やサハリンのこと、ロシアのことが、よく話題に上る。
 思い出すことはたくさんある。どれも、旅行前には想像すらしなかった新発見と驚きばかりである。知的刺激に満ちた感動もいたるところにあった。
 たとえば―(詳細は木村先生の紀行文をご覧下さい。)

○稚内(9日)、稚内➡コルサコフ➡ユジノサハリンスク(10日)
 *宗谷丘陵の壮大な眺め(風車はバードストライクで批判もあるが。)
 *稚内観光と、稚内市役所サハリン課の中川さんの流暢なバスガイド(稚内は初めて!開基百年記念塔資料館の展示は探検情報に溢れていて、間宮林蔵の凄さを再認識。北防波堤ドームでは、100年前の時代に想いを馳せ、ワープした。)
 *想像を絶してエキサイティングだった「稚内➡コルサコフ」の船旅(ジェットコースター状態5時間!何も語れません。)


サハリン課が誇る名ガイド 中川さん

みんなグロッキーの船内

○ユジノサハリンスク市内、ユジノサハリンスク➡ポロナイスク(11日)
 *ユジノサハリンスクの博物館で、生まれて初めて見た奉安殿(ロシア国内で!)
 *静かな林の中にある日本人墓地(ロシア墓地の各墓碑には埋葬された人の肖像画がある。)
 *サハリンが極悪犯罪者の流刑地だったという歴史(サハリンの発展と大きな関係がある。)
 *ロシア(旧ソ連)側から見た旧日本領の「奪還」(←国際法上は占領というべき)地図(歴史は見る側で評価が違うことを実感。)
 *朝鮮半島出身者の方々の想い(ジャパンセンター所長夫人からお話を聞き、ユジノサハリンスクの市場で話しかけられて日本語で会話をし、1945年8月旧ソ連の侵攻に伴う虐殺の悲劇に衝撃を受けた。GHQ関連でサハリン残留の経緯を調査するため国会図書館に通った1か月間(大沼保昭『サハリン棄民』(中公新書)の手伝い)の記憶が蘇った。)
 *凸凹道の長いバス旅と途中のトイレ(数十年前の田舎のトイレを思い出した。)



○ポロナイスク➡北緯50度線!(今回の旅のクライマックス!)➡ポロナイスク(12日)
 *森の中に残置された北緯50度線(旧日ソ国境線)の苔生した標柱台座(意外、あっけらかんとしていた。岡田嘉子の愛の逃避行話で盛り上がった。)
 *巨大な王子製紙工場廃墟(群!)(「サハリン廃墟探訪の旅はどうか」←参加者の声。「これは映画のロケに最適」←我が夫の談。)
 *サハリンには、アイヌ民族(北海道に移住)以外に2つの先住民族(ニブフ族、ウィルタ族)もいると、初めて知った(各民族の異なる伝統と相互関係が興味深い。日本軍との悲しい関係には心が痛んだ)。
 *ポロナイスクの博物館での嬉しい体験―考古学専門の学芸員が私のアイヌ文様ベストに感激され、一緒に写真を撮り、直筆の絵を下さった。先住民族ニブフ柄(ウィルタの芸術家の作品だが)の素敵なペンダント(魚の皮製)に魅せられ、いくつか買った(姪たちも喜んだ。)(皆も沢山買った。男性陣は、旧ソ連時代の中古バッチに群がっていた。)

 

○ポロナイスク➡ユジノサハリンスク(12日夜~13日朝)
 *日本時代からの狭軌を使った夜行寝台の旅(夫は、北方領土含むサハリン州の島の絵柄のコップ台(朝紅茶用)を気に入り、夕食後に駅まで行って車掌からゲット。)

○ユジノサハリンスク➡ホルムスク➡ユジノサハリンスク(13日)
 *旧ソ連時代の集合住宅(時代により様式が違うらしい。)
 *ユジノサハリンスクとホルムスク間の山の植生は、北海道と酷似(札幌郊外にいるかの如くの錯覚。自然は国境を超える!)
 *これからのサハリンと北海道の関係はどうあるべきか(ジャパンセンター所長から、ホルムスクを歩きながら伺った。40年近い旧ソ連・ロシアの駐在・生活のご経験から。)
 *ホルムスク郵便局での9人の女性電話交換手の集団自決(1945年8月2日朝)の悲劇(跡地の舗道で合掌。川嶋康男『永訣の朝』(河出文庫、2008年)を読みましょう。)
 *あちこちの旧ソ連戦勝記念碑(とそこに書かれたサハリン南部旧日本領の法的地位に関する言及 ←国際法研究者としては誤りを指摘したい。)
 *ユジノサハリンスクのチェーホフ博物館(チェーホフは単独サハリンに渡り、1万人近い囚人の実態調査を行った―これこそまさに実証研究。『サハリン島』を読むぞ!)

○ユジノサハリンスク➡シネゴルスク➡ユジノサハリンスク(14日)
 *旧川上炭鉱のあったシネゴルスクの郷土資料館(元小学校の校長先生だった女性館長さんと旧日本学校跡をガイドしてくれたイワン君)(懐かしい日本の生活用具等がたくさんあった。町の人々や子どもたちの尽力に感動した。)と、放置された炭鉱工場廃墟(長閑な風景だが、周辺土壌と地下水の汚染は大丈夫か?)
 *ユジノサハリンスクの市場で、多種多様な植物で採れた蜂蜜に溢れる蜂蜜屋さん(アイスクリーム屋の如く。)
 *スーパーで山ほど(8ローフだろうか)買った、ロシアの黒パン(帰国後2か月間、冷凍保存して毎日ロシア産蜂蜜と一緒に堪能した。)
 *バラエティに富むロシア料理、とくに温かいスープ(教えてもらったボルシチのレシピを、冬休みに是非実践したい。)


川上小学校跡

小学生たちが作った国境警備隊
 

○ユジノサハリンスク➡成田経由(!)➡札幌(15日)
 *空港で、使う機体が来ないので3時間待ち。結局飛行機現れず、やむなく空港倉庫から機体を出し、急いで整備し燃料詰めた、とかいう他社の塗装のまま(古くて廃棄寸前なので塗装の経費節約のため)の飛行機(一応オーロラ航空)に乗せられた(衝撃!私の兄はパイロットだが、彼ならば乗っただろうか・・・が、乗らねば日本に帰れない。)
 *オーロラ航空ジェットは新千歳空港の真上を飛んで成田へ(千歳上空から落下傘で降りたかった。サハリンは「近くて遠い」。)

 さらに、このツアーが圧倒的だったのは、参加メンバーが大変豪華だったことである。彼らに囲まれて、まったく飽きることのない1週間であった。
 主催者側のアレンジで、複数の専門家(写真家、研究者)や現地の関係者(ジャパンセンター所長ご夫妻、現地駐在新聞記者、現地領事館関係者)が同行した。また、参加者の中にもロシア文学、サハリンの歴史などの専門家が多かった。日本からの添乗員も、ロシア・CIS諸国の事情通かつ実践派で、その実感こもるガイドも大変面白く、また、現地通訳者の解説や通訳、配慮も過不足なくて心地良かった。初めてのサハリン、何も知らないロシアについて、旅の中で私が抱いた質問は際限なく多かったが、それに対して必ず、こうしたたくさんの専門家の中の誰かが最も適切な形で丁寧に答えてくれた。
 そして、とにかく参加者は、皆、ユニークで知的好奇心と冒険心に溢れていた。バスの中でも、食事中も、歩きながらも、ユーモアと笑いに満ちた会話が続き、時には真剣な議論になったりもした。最後の晩餐は、なんと賑やかだったことか!

 そして、この旅における最大の収穫は、私自身の無知を知ったことである。北海道に住んでいながら、隣のサハリンのことを何も知らなかったということを、明確に知った。
 私は7年前に、北海道という「土地」に魅かれて夫とともに札幌に移住し、大学で国際法を教えている。そこでの教育モットーの一つは、「辺境から世界を見る」である。
 ―国際関係のリアリティは、実は中央(東京)よりも辺境(日本の端)からの方がよく見えていることが多い。安全保障、領土、漁業、TPP問題も自分らの問題なのである。海外との国際交流、近代化に一早く乗り出したのも、辺境である。辺境だから外の世界が近く、敏感なのである。だから、東京の学生にとって国際関係はバーチャルだが、北海道の学生はそれをリアルなものと受けとめることができる。そのときに何が見えるか?―
 しかし、かくいう私自身が、不覚にもこうした発想で現実を見ていなかった。
 これからは、今回のツアーで学んだことを発展させて、もっとサハリンのこと、隣国ロシアのことを知ろう。そして、自身の研究や教育にも新たな発想で新風を吹き込もう、と考えている。ユジノサハリンスクの本屋で、子ども用のクリル文字のポスターを買った。NHKロシア語講座も聴いてみようか。サハリンの本も手元に借りている。日露関係から国際法もみてみよう。これからの展開が楽しみである。  

<付記>
 第二次大戦中、日本国内で一般市民を巻き込んだ地上戦は沖縄に限られない。当時の日本領サハリン南部でもあった。そして、魚雷によるサハリンからの引揚船の沈没により、数千人を越える多くの文民が稚内周辺海域で亡くなっている。けれども、このことは多くの日本人には忘れ去られているように思われる。政府主催の戦没者慰霊行事も、沖縄を含む南方では積極的に行われているが、北海道では耳にしたことがない(稚内で行われても不思議はないが)。これはなぜか、日ソ・日露間の外交的配慮によるものか。北方での戦禍は日本人の記憶の彼方にいってしまったからか。メディアもそれを忘れてしまったのか。
 一般市民を巻き込んだサハリンの激しい地上戦は、1945年8月15日(日本国内の終戦の詔勅の公表日)より後に本格化した。国際法上、1945年8月15日は戦争終結日ではなく、公式に戦闘が終結したのは1945年9月2日(日本がポツダム宣言に調印した日)とされる。ソ連は日ソ中立条約を破ってサハリン南部に侵攻したが、サハリンでの地上戦は戦争終結後も続いていたのではなく、紛れもなく第二次世界大戦の一部だったのである。
 このような終戦日についての日本国内の一般認識と国際認識とのズレが、市民を巻き込んだ国内地上戦と、関連する戦禍の犠牲者への慰霊を、南方のみに向かわせている一端でもあるのだろうか。日露関係は複雑である。しかし、歴史と現実を踏まえたうえで、いろいろな角度から将来のあるべき姿について考え続けていきたい。  

<さらに追記:帰国から3カ月後の12月18日>
 今日の夕方、来年から「稚内⇔コルサコフ」の定期便が廃止、とのテレビ報道があった。我々がジェットコースターを体験した船便である。これで、毎年行われていたサハリンからの日本人引揚者やその子孫らによるサハリン墓参・戦争犠牲者の現地追悼も、事実上難しくなる。「サハリン棄民」(前述大沼著)の歴史も含め、第二次世界大戦をめぐる北方の悲劇は、ますます忘れられていくのだろうか――いや、これは我々の課題である。


[2015.12.21]


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