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Essays

「サハリン国境紀行」は本当に面白かった  [pdf版]

木村 崇

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 NPO国境地域研究センター企画の国境をはさむ両地域を観光する旅は、新規商品として定着するにちがいない。今年私は退職者の身軽さから(手元不如意も省みず)、3月の福岡・対馬・釜山ルートの旅、9月の稚内・南サハリンルートの旅と、半年の間に二つも参加してしまった。その私が実感をこめて言うのだから確かである。
 サハリンは、2012年8月に国境フォーラム関連で行ったことがあったので、コルサコフ(大泊)やユジノサハリンスク(豊原)、ホルムスク(真岡)はまだ記憶に新しかった。でも今回は、企画の中心であった北緯50度線の国境跡訪問に否が応にも惹きつけられてしまった。いやしくも千島樺太交換条約を扱った論文を書いた者が行かなくてよいだろうか、などと都合のよい口実さえ見出した自分がいた。
 前回のサハリン行きの時は、念願だった利尻岳登山を済ませてから稚内に戻って一行に合流した。今回は『北のカナリアたち』という映画を見てぜひ行きたいと思った礼文島を訪れ、たっぷりトレッキングを楽しんだあと、9月9日午後1時、総勢14名という小さな団体の集合地点である稚内空港の到着ロビーに赴いた。意外なことに参加者名簿はなかった。これは個人情報に神経質な昨今の事情からだろうか。でも名札をつけていたから会話を交わすごとになんとなく個人の具体的情報が伝わってきたし、名刺交換もそれなりに行われた。さて14人の中にはよく知っている人が二名、対馬・釜山で知り合いになった人が一名いた。知り合いの一人であるOさんはロシアと縁のある職に就いているのに、20年前を最後にロシアへ行く機会がなかったので、おもいきって参加することにしたのだそうだ。「お店では今でも、レジで先に金を払ってから売り場に戻って、レシートと引き替えに買った品物をもらうんですか?」と聞かれたとき、古いギャグさながら「目が点」になった。私はソ連時代にタイムスリップしたような気がした。


国境観光ならではの学芸員のディープな解説

「日本離れ」した宗谷丘陵

 あまり期待していなかった稚内観光が、じつは新発見の連続だった。間宮林蔵について色々知っただけでなく、宗谷岬の突端へと幾重にもつらなって迫る丘陵の景色が見事だった。稚内商工会の有力者(きっとIさんに違いない)の特段の配慮とかで、一人あたり3000円分の地域振興券をいただいた。夜はホテル近くの居酒屋でその券を活用して地元のおいしい料理と酒に親しんだ。程なく一組の夫婦が後ろに陣取った。見るとサハリン旅行の参加者だった。話がはずんで、移住や転職のいきさつなど、かなり詳しい個人情報を知ることになった。これも地域振興券の効能だろうか。
 翌10日は朝早くホテルを出て、国際フェリーターミナルについた。3年前にも利用したハートランドフェリーの経営状況は極めて悪く、あと一便を最後に航路廃止となる可能性が大きいそうだ。高校卒業まで北海道で育った私には、わりと鉄道網が発達していたという印象が残っている。しかし、いつだったか故郷の旭川からの帰りに、海水浴で親しんだ増毛の浜を見たいと思って時刻表を調べたところ、予約した飛行機にはとうてい間に合わないほどまばらな運行状況になっているのを知って愕然とした。その線路も近々なくなるらしい。道内だけなら鉄路がなくなっても車があるのでどうにかなる。でもサハリンと北海道をつなぐルートが航空路線だけとなると、はかりしれないほど深刻な事態になるのは明白だ。


今年が見納めになりませんように

ほぼ全員がKO 手のつけられていない弁当↑

 船員が、これほどのやつは体験したことがないと言ったほど、フェリーは激しく上下に揺れ続けた。船底が思い切り持ち上がったと思うと、轟音をたてて海面を叩きつける。進行方向に頭を向け、仰向けで大の字になって踏ん張っているしかなかった。足の先にある正面の壁の鏡を見ると、船首側の窓が映っていた。大波がぶち当たり滝のように流れ落ちてゆく。それでもアニワ湾に入ると多少おさまったので、重ねて置いたあった弁当をひとつ食べた。隣にいたOさんがあきれ顔で見ていた。「食べませんか」とすすめたが、苦笑いされてしまった。揺れの少ない中央部の客室大部屋は抜け目のないロシア人船客に早々と占拠されたのだが、我々のグループはそれでも、それぞれなんとか堪えきったようだ。入国審査を待つ皆の顔には、この難関を乗り切ったという自信がみなぎっていた。私は幸先の良いことを確信した。どこかレトロな雰囲気のホテル「サッポロ」がこの日の宿だった。
 11日午前中はヒョンデ製のくたびれたバスでざっとユジノサハリンスク市内観光をした。予定表では午後4時、同じバスでポロナイスク(敷香)へ向け出発となっている。その前に日本センターを訪れることになっていた。その一室でまず、船中でやるはずだった斉藤氏のレクチャーを聴いた。稚内在住の写真家で、サハリンの北方奥深くまで探索した人である。センターの山本所長からも、ロシアやロシア人について、ご自身の真摯な付き合いの体験に基づいた話をうかがって、皆共感したようだった。
 山本所長夫妻と領事館付きの医師、それに北海道新聞の現地支局長が我々に同行して旧国境を目指した。バスは夕暮れ迫るオホーツク海岸を一路北へと走った。途中、鉄道駅にトイレ休憩で立ち寄ったとき、露天商のおばさんから花咲ガニを買った。夜の酒のつまみ用である。イクラを買ったHさんは夕食時に皆に振る舞ってくれたが、きわめて美味だった。夜9時ようやくポロナイスクのホテル「セーヴェル(北)」に投宿。運悪く金曜日だったので、1階のレストランでは夜中の2時までエイト・ビートの俗悪なメロディーを最大音量で響かせていた。ビート音が客室の床から伝わってきたほどである。ソ連時代、地方都市ではホテルのレストランがその町唯一の「社交場」で、どこでもこれと同じ光景が繰り広げられていたっけ。またまたタイムッスリップを体験してしまった。 


斉藤まさよし氏の特別講義

カニの品定めに余念のない筆者

 12日朝8時ホテル出発。敷香が横綱大鵬の生地だとは知らなかった。銅像のあるけっこう広くてきれいな広場で一同おおいに浮かれた。名越健郎は敷香から国境までは50キロだと書いているが信じられなかった。旅の最終日に等高線の入った10万分の1の地図を入手したので測ってみたところ、120キロほどもあった。舗装道路は途中で切れ、バスはまるでモンロー・ウオークのように腰を振ってすすむ。これが祟ったのか、汽車でユジノ(現地邦人の表現)に帰る我々を追いかけてくるはずバスが戻らなかった。途中で故障して修理に出したらしい。日本製の4輪駆動車がやたら目立つ理由がこれで分かった。
 サハリンは至るところ「戦争記憶遺産」の宝庫だ。道の両脇にコンクリート製のちゃちなトーチカが残って居た。日本軍がソ連軍の南下を「阻止」するために置いたのだそうだ。同じくちゃちで不趣味なソ連軍戦勝記念碑があちこちにある。その一つが目印らしく、私たちはそこでバスを下り、小雨そぼ降る細い左の脇道へ入っていった。100メートルほど進んだところにそれはあった。四つあった日露国境標石の第三号を固定していた台座跡である。すっかり苔むしていたが、ぽっかりと四角い穴をさらけ出していた。私はその上に登って、「日露両跨ぎ」と叫んで両足を踏ん張って見せた。ツアー参加者のほとんどが、その上に乗って色々なパフォーマンスを披露した。「国境」というと何かおどろおどろしいが、幽霊と恐れていたものが枯れススキだったみたいなあっけなさを感じた。
 77年前の、女優岡田嘉子と演出家の杉本良吉が雪を踏み分けて越えた当時の国境には、まだ彼らを残忍な運命に陥れる魔力があった。逃避行の舞台は、もっと広々とした、樹木もまばらな雪原だと思いこんでいたが、実際にはやせた木々がわりと密生している山裾に似た場所だった。これですっかり興ざめしてしまった。
 戻りは同じ道をポロナイスクまでたどった。舗装路に出るまでの悪路でバスは決定的なダメージを受けたのではないだろうか。樺太時代には主な都市で王子製紙の工場が稼働していた。敷香の工場跡はまことに巨大な廃墟であった。どの工場も最近まで建物を修理せずに一部で細々と操業を続けていたが、今はどこも放置されたままである。更地にしてしまえばよさそうなものだが、サハリン州政府は再利用の予定のない土地に無駄な投資はしないらしい。チェーホフがサハリンの囚人調査に訪れた帝政ロシア時代もそうだったが、ロシアの為政者たちにはこの土地を愛するという姿勢が根本的に欠けているような気がした。


大鵬とそろい踏み

秘技! 国境跨ぎ

 郷土博物館はこじんまりしているが、展示のコンセプトはなかなかのものであった。こちらが耳を傾けると、一見浮浪者を思わせる(実際博物館を泊まり歩いているらしかった)学芸員さんの解説がどんどん興に入ってきて、すっかり濃密な時間を過ごすことになった。息子さんが札幌で働いているとのことで、彼もよく北海道に行って学術交流をしているとか。その日ホテルにはジーマという、マツコデラックス風の芸人がユジノから地方公演に来ていた。そのせいで夕食の場所は別のレストランだった。そこには西部劇の酒場兼ホテルのように1階を見下ろせる2階がしつらえられており、私たちは上階へと案内された。1階は結婚披露宴の貸し切り会場で、またもやけたたましいメロディーが鳴り響き、天井まで震わせんばかりの有様だった。なんとこの披露宴は二日目だという。昨夜けたたましい花火を打ち上げていたのは、花嫁の父親であるこの町の金持ちの実業家だった。大鵬がもしここに残っていたら、こんな日常に溶け込んでいたのだろうかと思った。


地元博物館で熱烈解説(通訳兼) 学芸員(左)も大喜び

 北の方から構内に入ってきた寝台列車が静かに停まる。私たちは2人一部屋でそれぞれのコンパートメントにおさまった。23時33分発車。日本時代からの狭軌を使っているのに、車体は大陸ロシアを走る列車と同じ大型仕様になっていた。カーブの個所があまりないのだろうか。とても不安だった。鉄道警察が怖い顔(ソ連時代によく見たタイプ)をしてのぞき込み、「スピルツは没収する」(たしかにそういう法律があった)と脅した。どうやら察知されていたらしい。しかし添乗員のYさんが機転を利かせてうまく納めてくれたので(それを知ったのは翌日)、私たちの部屋はなんとか「居酒屋」を開店できた。
 23日6時17分、ユジノ到着。荷物をホテルに預け、朝食後ホルムスクへ向けて出発。バスはやはりヒュンディ製だが、もっと大型でしっかりした作りだった。真岡を襲ったソ連軍がユジノへ進軍するのを迎え撃った場所は「熊笹峠」である。そこにはおそらくサハリンで最大と思われる「戦勝記念碑」が立っている。その碑のおなか周りをぐるりと取り巻くように黒地に大きな金文字で「ロシア古来の土地である南サハリンとクリル諸島の解放に際し日本の侵略者たちとの戦いで斃れた英雄たちに永遠に栄光あれ」と書かれている。3年前にこれを見たときは欺瞞きわまりないと憤ったが、今回は、自国目線で語る戦争の歴史など、しょせん「神話」の度合いの差くらいしかないのだと思った。靖国神社を参拝する大臣たちが「日本のために尊い命を捧げた人々の御霊に感謝するため」と弁明するのと、この碑文はどれほどの違いがあるだろう。私の父はフィリピンのルソン島で戦死したが、せめてあんな戦争は日本のためにはならなかったと気付いて死んでほしかったというのが、いつわらぬ気持ちである。


戦勝記念碑

 ホルムスクの町並みのみすぼらしさは一層ひどくなっているように思われた。それでも、神社跡の池のほとりで花嫁側の介添人とおぼしき若い女性たちがはしゃいで写真に撮られているのや、手水場のそばのベンチに座っていた年若い恋人たちが、私たちに発見されてうつむいたのを目撃すると、今のホルムスク市民たちの健やかな生活が感じられた。対岸のワニノとを結ぶフェリーの埠頭一帯は、市民の憩いの場になっていた。この日は投票日だったから、職場はお休みだ。こんな所にもソ連時代の慣習が生きていたのだ。
 帰路「瑞穂村」の跡に立ち寄った。3年前に北大の専門家が話してくれたのを思い出して、私が皆さんに少し解説してあげた。ソ連軍が攻めてくるという情報に村に住む在郷軍人が、それまで仲良く暮らしていた朝鮮の人々がソ連と内通するのではないかとおびえたらしい。そして彼の扇動にのった日本人村民たちが、朝鮮人村民をだまして誘き出し、ひとつの家屋におし込めて火を放ったのだという。同様の事件が樺太のあちこちに生じたことが少しずつ明らかになってきている。それにしても村名を「ポジャールノエ」に変えたのはいただけない。「火事村」という意味である。総じて樺太の日本式地名を廃して(それはかまわないのだが)、新たに命名するやり方が、あまりにも即物的かつイデオロギー偏重で、サハリンを支配したソ連の偉いさんたちがいかに無教養で無粋だったかがよく分かる気がした。
 ユジノに戻ったのは5時前だった。私は前回行けなかったチェーホフ博物館を見たかったので途中で下ろしてもらうことした。同行希望者が5人現れた。建物はすっかり建て替えられて、内部も予想していたのより格段に充実していた。残念だったが閉館時間がせまっていて45分ほどで切り上げた。他の人たちもチェーホフに興味を持ってくれたようだった。ユジノの小公園にはチェーホフの作品に出てくる「子犬を連れた奥さん」だとか「太っちょと痩せっぽち」などなど、等身大の銅像がある。その前でかいつまんであらすじを紹介してあげると、帰ったら本屋で探してみるという声が返ってきてうれしかった。
 14日、旧川上炭鉱のあったシネゴルスク(「青山」の意)へ行く。大型バスが通るには山間部の道は窮屈だったが、中央アジア出身の運転手の腕はなかなかのものだった。ソ連時代には7000人が働いていたと言うが、今は閉山して人口は1500人まで減ってしまった。ユジノには元炭鉱夫のための住居が建てられ、大部分がそちらへ移住したということだった。


博物館の解説(通訳)

炭鉱跡

 炭鉱の管理棟だった建物の中に博物館と、地域の歴史と地理に関する発掘活動をする生徒たちのための課外活動サポートセンターが設けられていた。所長さんは最盛期にここの学校(小・中・高一貫校)の校長 をしていたという年配の女性だった。北海道の、以前炭鉱があった各地の子供たちと相互訪問しているせいか、ボランティア館員と思われるおばさんも、友好ムードむんむんであれこれ解説してくれた。戦後の一時期残留日本人と新規に参入してきたソ連人が共住していた時期のあったことが、展示を見て分かった。博物館は主にこの地域の生活の変化をテーマにしたもので、こじんまりしているが手際よくまとめられていた。展示物や解説にソ連的歴史観の押しつけがほとんどないことに気付いて意外な感じがした。
 管理棟の裏手の小高い丘の上に、間口が110メートルにもなる総2階の川上小学校が立っていたのだそうだ。最後の授業を免除してもらったイワン君(9年生、日本の高校一年相当)が先導して案内してくれた。川上小学校は戦後数年したとき火事ですっかり焼け落ちてしまい、今は土台しか残っていない。博物館に学校や生徒の写真が多数残っていたので、おかげで当時の様子がよく分かった。
 イワン君たちは課外授業の発掘調査で、神社の跡とか奉安殿を見つけたり、日本人の残した生活用具を見つけてはよく調べ、それを分類したり展示物にまとめたりしているとのことだった。もちろんソ連時代になってからのサハリンの過去も調べている。こういう若い「サハリン人」たちがどんどん育ってくると、日ロの関係にも少しずつわだかまりがなくなっていくだろうと思った。
 炭鉱からユジノに戻って、最後のショッピングをすることになった。大規模ショッピングモールで昼食をとり、その後は自由行動。私はいつもそうするように、まず黒パンを買った。そのあと縮尺10万分の1のサハリン地図を見つけて買ったが、北半分の第1巻だけしか残っていなかった。南半分の第2巻はガガーリン公園の向いにある店に行けばかならずあると聞いた。大部分の人たちが自由市場へ行っている間に、わたしはなんとかその店を探し当て、無事目的を達成することが出来た。往復に1時間かかった。夜6時、こうしてそれぞれ目的のものを手に入れた(女性たちは蜂蜜を沢山買えたとすっかり御自慢の様子だった)ツァー参加者たちは、ホテル近くの「ディスカヴァリー」という店に集合し、最後の晩餐のテーブルを囲んだ。翌日は東京組が成田へ発つ。札幌組は翌々日の出発だった。最近樺太研究を始めたというSさんがもう一度チェーホフ博物館へ行きたいといって、同じ札幌組のロシア語の出来るOさんを誘ったらしい。他人同士がこうして心から近づきになれる旅は、じつに良いものだと思った。


その後、このバスと再会することはなかった(北緯50度線近辺より)

[2015.10.27]


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