Essays
国境ツアー「北緯50度の日本国境を訪ねる開眼経験」
八谷 まち子
2015年9月9日から15日までの「サハリン国境紀行-2つの国境を超える旅」は本当に面白かった。細長い日本の南部である九州育ちの私には、ヨーロッパよりも遠い地域であった日本の北端を訪れ、さらにその続きのような樺太の地を踏むことは、地理的のみならず新たな事実の視界が大きく拡がる体験であった。加えて、ほとんどが初対面同志の参加していた人々がなんとユニークであったことか!
私にとって北の地域がいかに遠いものであったかを恥をしのんで白状すれば、まず、樺太とサハリンが同じ所であると認識していなかった、サハリンとはウラジオストクを通って行く街だと思っていた、そして、日本地図の突端の町としか理解していなかった稚内から船で行ける所だとは想像もしていなかった。単に地理の知識が欠如した無知であっただけではあるが、ことほどさように気持ちも遠い所だったのである。したがって、サハリンへ出発するために集合した稚内空港から日本最北端の宗谷岬を巡る機会をもらったことは、早くも旅のハイライトであった。まだ目的地へ出発もしていないのに「ああ、遂にここまでやって来た」とこの上ない感慨に浸った。本当に感激ものだった。宗谷海峡は発見者の名を取ってラペルーズ(La Pelouze)海峡という国際的な名称が有ることも知った。そして、小学校で習った間宮林蔵が、ラーメンにまで名づけられているように、いかにこの地では日常的に立ち現れる存在であるかを知って、まず第一の驚き。いたるところで彼の銅像(いつも小ぶりであった)や、足跡と業績の記述にお目にかかった。
翌日、宗谷海峡で苦難の国境超え(木村崇先生の紀行文をご参照ください)を経験してコルサコフ港へ到着、そしてユジノサハリンスクへ。なんとエキゾチックな名前であることか!しかしどの町にも全てれっきとした日本名があることを、これまた初めて知った、曰く、大泊港から豊原へ。豊原(ユジノサハリンスク)の立派な郷土史博物館は日本国旧樺太庁の建物だという。豊原の町のあちこちに日本統治時代の建物が残されている。しかし、それらは説明がなければ、そして歴史を踏まえていなければ、単なるロシアの地方都市の街並みの風景に埋没してしまう。北緯50度の日ソ国境線までの途上にも日本の歴史の一端を刻んでいるいくつもの場所がある。しかし、私にはそのどれもが初めて出遭った史実に等しく、これまでの無関心のベールを次々と剥がされるような思いだった。と同時に、北であろうと南であろうと、それぞれの土地に人々の営みと密着した逸話と史実があるという、きわめて当然のことに気付かされることになった。
私にとって正真正銘の学びとなったのは、北方少数民族についてである。私たちが「アイヌ」と呼ぶ原住民族がおり、2008年に日本はようやく彼らに「原住民」の地位を認めたという程度の知識に過ぎなかったが、北海道から樺太、さらにロシア本土にかけて多様な民族がそれぞれの暮らしをしているということを知った。さらに、彼らの生活も、国際政治の変転に大きく影響されていることの片りんを学んだ。ここでも、目線と思いがグッと個人の生活レベルへ引き寄せられることになった。
こうした目から鱗を落とすような実感を重ねて帰国して南の地域での日常に戻ったが、私の視界が北まで広がったことを確認したことがあった。自宅では全国紙の朝日新聞と地方紙の佐賀新聞を読んでいる。その佐賀新聞で、これまでであればほとんど注意を払わなかったであろう記事を見つけてやや興奮した。ひとつは、「樺太アイヌの苦難」と題した全面記事である(10月9日)。落帆(現、レスノエ)から日本への引き揚げを余儀なくされたアイヌの家族の歴史と金田一京助そして金田一秀穂との交流を紹介している。もはやこの記事は私にとっては単なるエピソードではありえなかった。樺太の風景やアイヌの人々の暮らしぶりを目に浮かべ、抗えなかったであろう苦難に思いを馳せる。『オホーツクの灯り』を是非読もうと思う。
もう一つは、樺太ではあちこちで目にしたタラバガニの話。やはり佐賀新聞が、ノルウェー最北端の小さな漁村がタラバガニの輸出で大いに潤っているという記事を掲載していた(11月15日)。このタラバガニは、欧州には生息していなかったが、ソ連の科学者が漁獲資源を増やすために1960年に北太平洋から持ち込んでバレンツ海に放流し、大繁殖したという。ノルウェーでは、外来種であるので駆除すべきとの意見もあったが2002年から資源としての商業捕獲が認められ、商業的に成功して伝統漁も回復して家計を潤しているという。「自由市場」ではどこでも売られていたあの大きなタラバガニ!ウォッカと相性がいいと嬉しそうだったあの顔とあの顔!!北の世界だ。
どうしても書きたい余談がある。
ツアーの間、ずっと同行してくれたガイドのガリーナさんは大変流暢な日本語を話される。その彼女が、ユジノサハリンスク市内の案内で、レーニン像が立っている大通りを「ミーラ通りです」と紹介した。何しろ町の中心の通りだから何度も行き来をするがそのたびに「ミーラ通りです」。日本人には「ミイラ通り」と聞こえてなんだか居心地が悪かったが、遂に木村崇先生が声をあげられた。「そのミーラというのはミール(平和)が格変化したものでしょう、通りの名前は平和通りだから、ミール通りと言った方がいいよ。」なるほど、平和通りだったのか、と納得。しかしこれで一件落着ではない。ツアー最終日は再びユジノサハリンスクへ戻ったが、その日はサハリン州知事の選挙の日であった。立候補者は数名いたらしいが、ポスターはプーチン大統領が送り込んだという一人の候補者のものしか街中には貼り出されていなかったので、実態は信任選挙だということだった。この候補者は、前任の知事が汚職の疑いで逮捕され、代理知事としてモスクワからやって来た人らしいが、前任知事も、実は大統領が送り込んだ人だったという。サハリンという辺境の地で「汚職を取り締まる」知事の権限を自由に振りかざし、度が過ぎると大統領に睨まれて汚職を立件されるというわけだ。「ミイラ取りがミイラになるんですね。」そうか、やっぱり『ミーラ通り』は正しい名前だったのだ。
[2015.12.15]