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Essays 『サハリン国境紀行 - 北緯50度線へ』ツアー参加者のエッセイ *画像をクリックすると拡大します
はずみで参加したサハリン国境紀行 大須賀 みか
ある夏の終わりかけの日、時々送られる『Border Studiesメールレター』に「稚内・サハリン国境観光:北緯50度線を見る 好評発売中!」という一文を見つけた。
独身の時はたびたびソ連・ロシアを訪れていたが、結婚・子育てで忙しくなり、気がつけばかの国の地を踏まずに20年が過ぎていた。
サハリンでは荘厳な正教会も絢爛たる宮殿も望めなさそうだが、時差は1時間だし近いし、とにかく、ロシア国籍の人たちがロシア語を話しているだろう。
というわけでその「サハリン国境観光」なるものの、約1週間の旅程も意義も何も読まずに出発の日を待った。
稚内で集合。空港には他のツアー団体もいくつか集合していたが、われわれ十数人の一行は、明らかに異彩を放っているようだ。メモを取りまくる新聞記者、「はじっこが大好きなの」と嬉しそうな一見普通のご婦人、にこやかながら眼光鋭い大学教授たち、
感無量というおもむきの日本史専攻の大学院生、そして今も謎の男3人組他。私は一行の中ではいささか場違いなようだ。 稚内で一番印象的だったのは、ホテルの朝食バイキングで浴衣を着たまま大きい納豆のパックを二つもご飯にかけて食べていたロシア人の巨漢。 これを「境界」のシンボルと言わずにいられようか。 さて、稚内からフェリーに乗ったらコルサコフまで4、5時間か、あっという間かなと、軽い気持ちで乗船したら、 待っていたのは… 強い低気圧の影響で木の葉のように波間を進まざるをえなくなった船、そしてロシア人も日本人もなすすべもなくじっと耐える姿。私はずっと前にも台風のせいで激しく揺れる船(ナホトカ-新潟)に乗った経験があり、 とにかくじっと横になっていればひどい船酔いにはならないと経験していたので、今回も同じように横になっていた。 そのうちフワッと船が持ち上がったときに息を吸い、グーンと底に引き込まれる感じになったときに息をフーと吐けばよりラクなことに気が付いた。 それをやっているうちに十数年前にも似たようなことをしたのを思い出した。陣痛に合わせてヒー・フー、出産だ! 殆どの人が死んだように動かなくなっていたときに、約2名、元気に会話している人がいた。
K教授と今回の主催者でスラブ研のI教授だ。楽しそうに窓の外をみて「すごい」と言ったり、お弁当を食べて
「うん、いい味付けだ」と言ったり。
毎夕食時にウォッカなどを飲んでいた参加者は何人かいたが、この2人は、確かめたわけではないが、
夕食後も同室の部屋で飲みつつ語り合っていたのではないかな。そして毎朝、二日酔いの気配もなく元気そのもので起きてきた。
まさに、鋼鉄の肝臓だ。 さて、ついにサハリンの州都、ユジノサハリンスクに着いた。
駅前の公園には大きいレーニンの立像があり、コミュニスト通りという名前の通りがあって、
なんかソ連時代から変わっていないな、と思ったが、泊まったサハリン・サッポロホテルは設備が整って清潔だった。
ここを起点にサハリンを北上し、またもとに戻ることになる。 跡:日本領時代には、いくつもの神社が建てられたそうだ。北海道でも開拓時代、ある地域を一通り開拓するとそこに神社が建立されたと聞いたことがある。国家神道の時代の政治・宗教的な意味のほかに、地域のコミュニティセンターとしての役割もあったのではないかと推測するが、よくわからない。いくつかの神社の「跡」を見て回った。「ここの…が神社の…でした。」とガイドさんが日本語で説明してくれるのだが、正直何が何だか分からなくて困惑した。唯一私に分かったのは建物も鳥居もないのになぜか狛犬のペアだけが残り、律儀に「あ・うん」の形をしていたものだ。ちなみにロシア人の中にもこの狛犬が好きな人がいるらしく、レストランか何かの入り口に狛犬のペアを飾っているのを見かけた。 台座(または台座の跡):ポロナイスクから色々な碑を見学しつつ北上し、北緯50度、かつての日露の国境の、 いくつかあった標石の台座の跡の一つを見学した。スラブ研には菊の紋章つきの国境標石のレプリカが意味ありげに置いてある。 ああ、この苔むして原型をとどめないものに、あのレプリカが載っていたんだな、と特に感慨もなく見ていた。 ところが、同行者たちの異常なはしゃぎぶりには驚いた。台座の跡をまたいだり、 ポーズを取ったりしてそれぞれが写真に納まって興奮している。おそらく私などと違って、 サハリンの歴史について実感をともなって知っているからこその興奮ぶりなのだろう。 廃墟:あちこちで製紙工場の廃墟を見た。大きな廃墟の存在感が私を圧倒する。筆では表現しがたい。 これぞ日本ではまず見られないものだろう。 日本では最近「空き家問題」が注目されており、周囲に危険を及ぼしかねない建物で、 持ち主の不明なものは自治体がお金を出して取り壊したりしている。じゃあサハリンのこの廃墟はどうなのか。 「危険」と書いた看板はみあたらないし、フェンスで囲んだりもしていない。誰かが興味をもってのぼったり、 こどもが入って遊んだりして、足を踏み外し、それが軽いケガですめばいいが…「ロシア」は頭ではわからない (いや、逆に日本人の安全意識のレベルが他国より高いのだろうか)。 今回の旅行では、できたら日本では手に入らないロシア語のついたTシャツを買いたいと思った。 ところが、ユジノサハリンスクの大きなスーパーの衣料品店を見て回っても見当たらない。 あるのは英語のTシャツばかりだ。「そうか、日本でも漢字のTシャツはマイナーだし、ロシアでも同じかな。」 とあきらめかけていたところ、ある露店で偶然発見! しかも綿100%で着心地もよさそうだ。 自分にはロシア語で「わたしはロシアが好きだ」「私はきみが好きだ」と書いてある2枚を買い、 もう1枚「私は自分の妻が好きだ」と書いてあるものを夫のお土産にした。 来年の夏、札幌西区の住宅街で「私は自分の妻が好きだ」と大きく書かれた半袖Tシャツを着、覇気のない足取りで歩くオヤジがいたら、それは私の夫である。 楽しい旅だった。一番よかったのは、最初には「異彩を放った一行」だと思った同行の皆さんとの、とても楽しく刺激的な会話。ガイドの方たちにもとてもよくしていただき、貴重な体験となった。
「樺太」から70年目のサハリン 鈴木 仁
はじめに
日本人慰霊碑
国境標石の跡とトーチカ
この国境標石の辺りは、ソ連との関係が悪化する1938年まで観光地であった。今、ここに着くまでの国境線以南の道路脇には、ソ連軍の部隊や兵士個人の名を刻んだ様々な碑が建てられていた。それらを眺め、雨に打たれる中で国境の跡に立っていると気が重くなった。と言って早々に立ち去りたくもなく、ここからソ連に亡命した岡田嘉子の話や、冷たくなった土台を撫で、苔を払ったりして過ごしていた。
博物館の日本時代コーナー
ホルムスク(真岡町)
ユジノサハリンスク(豊原市)
終わりに 国境ツアー「北緯50度の日本国境を訪ねる開眼経験」 八谷 まち子 2015年9月9日から15日までの「サハリン国境紀行-2つの国境を超える旅」は本当に面白かった。細長い日本の南部である九州育ちの私には、ヨーロッパよりも遠い地域であった日本の北端を訪れ、さらにその続きのような樺太の地を踏むことは、地理的のみならず新たな事実の視界が大きく拡がる体験であった。加えて、ほとんどが初対面同志の参加していた人々がなんとユニークであったことか! 私にとって北の地域がいかに遠いものであったかを恥をしのんで白状すれば、まず、樺太とサハリンが同じ所であると認識していなかった、サハリンとはウラジオストクを通って行く街だと思っていた、そして、日本地図の突端の町としか理解していなかった稚内から船で行ける所だとは想像もしていなかった。単に地理の知識が欠如した無知であっただけではあるが、ことほどさように気持ちも遠い所だったのである。したがって、サハリンへ出発するために集合した稚内空港から日本最北端の宗谷岬を巡る機会をもらったことは、早くも旅のハイライトであった。まだ目的地へ出発もしていないのに「ああ、遂にここまでやって来た」とこの上ない感慨に浸った。本当に感激ものだった。宗谷海峡は発見者の名を取ってラペルーズ(La Pelouze)海峡という国際的な名称が有ることも知った。そして、小学校で習った間宮林蔵が、ラーメンにまで名づけられているように、いかにこの地では日常的に立ち現れる存在であるかを知って、まず第一の驚き。いたるところで彼の銅像(いつも小ぶりであった)や、足跡と業績の記述にお目にかかった。 翌日、宗谷海峡で苦難の国境超え(木村崇先生の紀行文をご参照ください)を経験してコルサコフ港へ到着、そしてユジノサハリンスクへ。なんとエキゾチックな名前であることか!しかしどの町にも全てれっきとした日本名があることを、これまた初めて知った、曰く、大泊港から豊原へ。豊原(ユジノサハリンスク)の立派な郷土史博物館は日本国旧樺太庁の建物だという。豊原の町のあちこちに日本統治時代の建物が残されている。しかし、それらは説明がなければ、そして歴史を踏まえていなければ、単なるロシアの地方都市の街並みの風景に埋没してしまう。北緯50度の日ソ国境線までの途上にも日本の歴史の一端を刻んでいるいくつもの場所がある。しかし、私にはそのどれもが初めて出遭った史実に等しく、これまでの無関心のベールを次々と剥がされるような思いだった。と同時に、北であろうと南であろうと、それぞれの土地に人々の営みと密着した逸話と史実があるという、きわめて当然のことに気付かされることになった。 私にとって正真正銘の学びとなったのは、北方少数民族についてである。私たちが「アイヌ」と呼ぶ原住民族がおり、2008年に日本はようやく彼らに「原住民」の地位を認めたという程度の知識に過ぎなかったが、北海道から樺太、さらにロシア本土にかけて多様な民族がそれぞれの暮らしをしているということを知った。さらに、彼らの生活も、国際政治の変転に大きく影響されていることの片りんを学んだ。ここでも、目線と思いがグッと個人の生活レベルへ引き寄せられることになった。 こうした目から鱗を落とすような実感を重ねて帰国して南の地域での日常に戻ったが、私の視界が北まで広がったことを確認したことがあった。自宅では全国紙の朝日新聞と地方紙の佐賀新聞を読んでいる。その佐賀新聞で、これまでであればほとんど注意を払わなかったであろう記事を見つけてやや興奮した。ひとつは、「樺太アイヌの苦難」と題した全面記事である(10月9日)。落帆(現、レスノエ)から日本への引き揚げを余儀なくされたアイヌの家族の歴史と金田一京助そして金田一秀穂との交流を紹介している。もはやこの記事は私にとっては単なるエピソードではありえなかった。樺太の風景やアイヌの人々の暮らしぶりを目に浮かべ、抗えなかったであろう苦難に思いを馳せる。『オホーツクの灯り』を是非読もうと思う。 もう一つは、樺太ではあちこちで目にしたタラバガニの話。やはり佐賀新聞が、ノルウェー最北端の小さな漁村がタラバガニの輸出で大いに潤っているという記事を掲載していた(11月15日)。このタラバガニは、欧州には生息していなかったが、ソ連の科学者が漁獲資源を増やすために1960年に北太平洋から持ち込んでバレンツ海に放流し、大繁殖したという。ノルウェーでは、外来種であるので駆除すべきとの意見もあったが2002年から資源としての商業捕獲が認められ、商業的に成功して伝統漁も回復して家計を潤しているという。「自由市場」ではどこでも売られていたあの大きなタラバガニ!ウォッカと相性がいいと嬉しそうだったあの顔とあの顔!!北の世界だ。
どうしても書きたい余談がある。
[2015.12.15] |
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