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『サハリン国境紀行 - 北緯50度線へ』ツアー参加者のエッセイ 

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  はずみで参加したサハリン国境紀行               大須賀 みか

  「樺太」から70年目のサハリン                  鈴木 仁

  国境ツアー「北緯50度の日本国境を訪ねる開眼経験」   八谷 まち子




はずみで参加したサハリン国境紀行      大須賀 みか

 ある夏の終わりかけの日、時々送られる『Border Studiesメールレター』に「稚内・サハリン国境観光:北緯50度線を見る 好評発売中!」という一文を見つけた。
 気がついたら申し込みの電話をしたあとだった。
 わが家では3年前、家族4人で初めてヨーロッパ旅行を楽しみ、2015年には、ぜひロシアのサンクトペテルブルクに行こうね、と言っていた。 ところがいざ今年になると、ハイティーンの子ども達はそれぞれ夏休みも忙しく、ロシア旅行はお流れに。しかたないなと一旦あきらめた私だ。

 独身の時はたびたびソ連・ロシアを訪れていたが、結婚・子育てで忙しくなり、気がつけばかの国の地を踏まずに20年が過ぎていた。 サハリンでは荘厳な正教会も絢爛たる宮殿も望めなさそうだが、時差は1時間だし近いし、とにかく、ロシア国籍の人たちがロシア語を話しているだろう。 というわけでその「サハリン国境観光」なるものの、約1週間の旅程も意義も何も読まずに出発の日を待った。

 稚内で集合。空港には他のツアー団体もいくつか集合していたが、われわれ十数人の一行は、明らかに異彩を放っているようだ。メモを取りまくる新聞記者、「はじっこが大好きなの」と嬉しそうな一見普通のご婦人、にこやかながら眼光鋭い大学教授たち、 感無量というおもむきの日本史専攻の大学院生、そして今も謎の男3人組他。私は一行の中ではいささか場違いなようだ。
 稚内では市の職員がバスでガイドしてくれる歓待ぶりで驚いた。札幌から参加した私から見てもどことなく日本離れしたところだ。 宗谷公園には神社やお墓があり奥まったところに小さめの間宮林蔵の胸像があった。間宮林蔵ってなにをした人だっけ。あ、そうか間宮海峡を発見した人?  ロシア語では間宮海峡をタタール海峡(Татарский пролив)と呼ぶことをこの旅行で改めて知り、 「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。」という有名で不可解で印象的な詩を突如思い出した。

 稚内で一番印象的だったのは、ホテルの朝食バイキングで浴衣を着たまま大きい納豆のパックを二つもご飯にかけて食べていたロシア人の巨漢。 これを「境界」のシンボルと言わずにいられようか。

 さて、稚内からフェリーに乗ったらコルサコフまで4、5時間か、あっという間かなと、軽い気持ちで乗船したら、 待っていたのは… 強い低気圧の影響で木の葉のように波間を進まざるをえなくなった船、そしてロシア人も日本人もなすすべもなくじっと耐える姿。私はずっと前にも台風のせいで激しく揺れる船(ナホトカ-新潟)に乗った経験があり、 とにかくじっと横になっていればひどい船酔いにはならないと経験していたので、今回も同じように横になっていた。 そのうちフワッと船が持ち上がったときに息を吸い、グーンと底に引き込まれる感じになったときに息をフーと吐けばよりラクなことに気が付いた。 それをやっているうちに十数年前にも似たようなことをしたのを思い出した。陣痛に合わせてヒー・フー、出産だ!

 殆どの人が死んだように動かなくなっていたときに、約2名、元気に会話している人がいた。 K教授と今回の主催者でスラブ研のI教授だ。楽しそうに窓の外をみて「すごい」と言ったり、お弁当を食べて 「うん、いい味付けだ」と言ったり。 毎夕食時にウォッカなどを飲んでいた参加者は何人かいたが、この2人は、確かめたわけではないが、 夕食後も同室の部屋で飲みつつ語り合っていたのではないかな。そして毎朝、二日酔いの気配もなく元気そのもので起きてきた。 まさに、鋼鉄の肝臓だ。

 さて、ついにサハリンの州都、ユジノサハリンスクに着いた。 駅前の公園には大きいレーニンの立像があり、コミュニスト通りという名前の通りがあって、 なんかソ連時代から変わっていないな、と思ったが、泊まったサハリン・サッポロホテルは設備が整って清潔だった。 ここを起点にサハリンを北上し、またもとに戻ることになる。

跡:日本領時代には、いくつもの神社が建てられたそうだ。北海道でも開拓時代、ある地域を一通り開拓するとそこに神社が建立されたと聞いたことがある。国家神道の時代の政治・宗教的な意味のほかに、地域のコミュニティセンターとしての役割もあったのではないかと推測するが、よくわからない。いくつかの神社の「跡」を見て回った。「ここの…が神社の…でした。」とガイドさんが日本語で説明してくれるのだが、正直何が何だか分からなくて困惑した。唯一私に分かったのは建物も鳥居もないのになぜか狛犬のペアだけが残り、律儀に「あ・うん」の形をしていたものだ。ちなみにロシア人の中にもこの狛犬が好きな人がいるらしく、レストランか何かの入り口に狛犬のペアを飾っているのを見かけた。

台座(または台座の跡):ポロナイスクから色々な碑を見学しつつ北上し、北緯50度、かつての日露の国境の、 いくつかあった標石の台座の跡の一つを見学した。スラブ研には菊の紋章つきの国境標石のレプリカが意味ありげに置いてある。 ああ、この苔むして原型をとどめないものに、あのレプリカが載っていたんだな、と特に感慨もなく見ていた。 ところが、同行者たちの異常なはしゃぎぶりには驚いた。台座の跡をまたいだり、 ポーズを取ったりしてそれぞれが写真に納まって興奮している。おそらく私などと違って、 サハリンの歴史について実感をともなって知っているからこその興奮ぶりなのだろう。

廃墟:あちこちで製紙工場の廃墟を見た。大きな廃墟の存在感が私を圧倒する。筆では表現しがたい。 これぞ日本ではまず見られないものだろう。 日本では最近「空き家問題」が注目されており、周囲に危険を及ぼしかねない建物で、 持ち主の不明なものは自治体がお金を出して取り壊したりしている。じゃあサハリンのこの廃墟はどうなのか。 「危険」と書いた看板はみあたらないし、フェンスで囲んだりもしていない。誰かが興味をもってのぼったり、 こどもが入って遊んだりして、足を踏み外し、それが軽いケガですめばいいが…「ロシア」は頭ではわからない (いや、逆に日本人の安全意識のレベルが他国より高いのだろうか)。

 今回の旅行では、できたら日本では手に入らないロシア語のついたTシャツを買いたいと思った。 ところが、ユジノサハリンスクの大きなスーパーの衣料品店を見て回っても見当たらない。 あるのは英語のTシャツばかりだ。「そうか、日本でも漢字のTシャツはマイナーだし、ロシアでも同じかな。」 とあきらめかけていたところ、ある露店で偶然発見! しかも綿100%で着心地もよさそうだ。 自分にはロシア語で「わたしはロシアが好きだ」「私はきみが好きだ」と書いてある2枚を買い、 もう1枚「私は自分の妻が好きだ」と書いてあるものを夫のお土産にした。 来年の夏、札幌西区の住宅街で「私は自分の妻が好きだ」と大きく書かれた半袖Tシャツを着、覇気のない足取りで歩くオヤジがいたら、それは私の夫である。

 楽しい旅だった。一番よかったのは、最初には「異彩を放った一行」だと思った同行の皆さんとの、とても楽しく刺激的な会話。ガイドの方たちにもとてもよくしていただき、貴重な体験となった。

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「樺太」から70年目のサハリン            鈴木 仁

はじめに
 終戦70年をむかえた2015年9月、サハリン国境ツアーに参加し、かつて日本領であった南樺太各地を巡った。サハリンへの旅行は、2003年に旧樺太庁博物館の調査団に同行して以来であった。その時のフェリーでは、故郷での慰霊に向かう元住民の方々がいた。宿泊施設に向かうバスでは、戦後、樺太に残った日本人の婦人たちが通訳の補助として同行しており、元住民の方たちとの昔話で互いの知人の名前が出ると、引揚げ先やサハリンでのそれぞれの苦労を語っていた。
 その後、私は引揚者の福利厚生を目的に設立された社団法人全国樺太連盟に、資料館を作る仕事で3年間ほど勤めた。その作業の中では調査だけでなく、元住民の思い出を茶飲み話としても聞いていた。このときの経験が、大学院の社会人学生となって日本時代の樺太の歴史を研究することにつながっている。石油・ガス開発でのサハリンの変容は研究者の話で聞いていたが、再訪する機会のないまま、戦前の資料を見て過ごしていた。
 サハリン国境ツアーには、経済的な理由もあるが、開発が進んだこの地を見ることに躊躇していた。それでもかつての国境は、近代樺太の歴史の始まりと終わりを意味しており、その場に立ってみたくなった。
 以下は旅行中の感想を綴ったものである。日付順ではなく、取り上げた見学場所も一部であり、ツアーを再現するものではないが、サハリンで「樺太」を考えていた話としてお伝えしたい。また、ガイドの方、参加者の皆さんとは楽しい時間を共有できただけでなく、碑文の解読やロシアの歴史・文化など、語学に疎い筆者の理解を助けていただいた。感謝とともに、個人的な思いを綴った本稿での割愛をお許しいただきたい。

日本人慰霊碑
 このツアーで感慨深かったのは、サハリンでの最初の見学が、ユジノサハリンスク(旧名豊原市、以下同)の墓地にある日本人慰霊碑への献花から始まったことだった。ツアー会社のエムオーツリストは、シベリア抑留者の墓地への慰霊ツアーを手掛けているため、こうしたプログラムが用意できたという。
 墓地の入口から日本人の慰霊碑に向かうまでに、ロシア人、朝鮮人の墓が並んでいる。墓碑には個人の肖像が描かれ、ソ連の赤い星の装飾やハングル文字などが、この地に生きた人々の生涯を表していた。
 戦後建立された日本人慰霊碑には、かつての日本人の墓碑も並べられていた。欠けた壁面には、大正・昭和初期に亡くなった人の戒名も読める。石碑の下に眠る人はいなくとも、ツアー参加者は一人ずつ花を置くと、自然と手を合わせた。
 このツアーでは、日本人の慰霊碑だけではなく、朝鮮人の慰霊碑にも訪れた。2基とも日本人による加害の歴史(上敷香、瑞穂村での虐殺)を刻んでいる。

国境標石の跡とトーチカ
 北緯50度のソ連との国境線を示す国境標石は、鬱蒼とした林の中にあった。標石は失われ、土台が残るだけだが、由来を示す看板などないので、欠けた石のブロックが座り込んでいるようである。戦前の写真を見ると、国境標石の周囲は切り開かれており、シンボルとしての存在感が伝わってくる。

国境標石の土台 戦前の国境標石(1930)

 この国境標石の辺りは、ソ連との関係が悪化する1938年まで観光地であった。今、ここに着くまでの国境線以南の道路脇には、ソ連軍の部隊や兵士個人の名を刻んだ様々な碑が建てられていた。それらを眺め、雨に打たれる中で国境の跡に立っていると気が重くなった。と言って早々に立ち去りたくもなく、ここからソ連に亡命した岡田嘉子の話や、冷たくなった土台を撫で、苔を払ったりして過ごしていた。
 帰路、ソ連軍の顕彰碑や日ソ合同の慰霊碑を見学した。1945年8月9日からの国境付近での戦闘について、日本軍の痕跡を示すものとしてトーチカが残されている。かつて訪れた人の話では保存もされず荒れ果てた状態と聞いていたが、行ってみると周辺が公園の芝のように刈られ、トーチカ間を結ぶ塹壕が復元されていた。ガイドさんの話によると、9月5日の戦勝記念行事で戦闘を再現したイベントがあったという。トーチカの中は小さな窓(銃眼)からの光が差しても薄暗く、そこから外を覗くと、芝生のような原野が見えた。 この施設は南下するソ連軍を追い返すための基地ではなく、時間を稼ぐための防備にすぎない。勝利のないこの場所で、同じように小さな窓を覗いていた兵士がいたと思うと、いたたまれない気持ちになった。
 後日、ツアーは炭鉱町のシネゴルスク(川上村)の公民館内の博物館を見学するが、そこに児童が紙粘土で作った国境での戦闘のジオラマがあった。戦勝記念行事にはこの町の学校からもバスで向かい、摸擬戦を見学しており、児童の作品はそれを表しているという。塹壕から黄土色の絵の具で塗られた日本兵2人と、倒れているのか匍匐前進しているのかはわからないがソ連兵が近くに置かれていた。冷たいコンクリートのトーチカとは対照的に、子供が作る人形や塹壕は丸みを帯びて厚ぼったく明るい色彩であった。

博物館の日本時代コーナー
 ユジノサハリンスク(豊原市)にあるサハリン州郷土博物館は、昭和12年に建てられた樺太庁博物館の建物や資料を引き継いだ施設である。2003年に来たときは前庭の木々が茂り、帝冠様式とよばれる天守閣のような特徴的な建物を写真に撮ろうとすると、山城のように写っていた。今は日本の援助により建物は補修され、日本時代には前庭だけだった敷地も館の周辺に広げられ、噴水が再現されている。入館料は館内だけなので、庭園となった敷地内は、小さな子を連れた女性たちや老夫婦が憩いの場所として集っている。 館内の展示は、1945年以降の歴史資料が多くなっており、その分、日本時代の展示が縮小されたようである。ソ連時代がすでに歴史となったことや、サハリンプロジェクトを機とする発展が同時代でも歴史的な事象であるため、展示スペースの都合上、サハリン州にとって異質な時代が追われたように思われた。
 日本時代の展示は5メートルほどのブースに集約されており、国境標石(戦前の模型)、橋の欄干、寺の鐘、土瓶、算盤、生活道具が並べられている。かつてこの島に集団で居住していた「日本人」がどのような生活文化を持っていたのかはわかるが、40年の間にどのような歴史を築いたのかは伝えられていないようである。それでも動植物の標本は日本時代の博物館で制作されたものであり、考古・先住民族の展示も設備がリニューアルされてはいるが、展示品や復元図の絵画も樺太庁博物館の写真にあるものであった。
 ここの他にも各地で博物館を見る機会があり、ここでも採取された生活道具が並んでいたが、北海道の郷土資料館の「昔の暮らし」コーナーで見るような内容であった。

ホルムスク(真岡町)
 ユジノサハリンスクからホルムスクに向かう途中、峠を越える。日本時代に熊笹峠と呼ばれたこの場所は、終戦後も続く日ソ戦の激戦地であった。戦車を掲げる「戦勝記念碑」には、ファシストからサハリン・クリルを解放したことが謳われている。ほとんどが地中に埋まった日本軍のトーチカ跡から眺めると、西岸の海と山間にホルムスクの市街がわずかに見えた。
 この峠に降りたとき、一度来たような錯覚を感じていた。それは10年余も前に、様似町の友人の家に泊まったとき、その祖父から伺った戦争体験を思い出していたのだった。真岡から峠を登って迫るソ連軍を待ち構えたときの情景が、聞いていたとおりであった。急な部隊編成のため、苗字しか知らないまま戦死してしまった「戦友」は、樺太の出身とだけ聞いていたという。
 ホルムスク市街地では、戦後に建てられた「鎮魂の碑」への献花があり、旧王子製紙工場や旧真岡郵便局跡も訪れた。高台のアパートに囲まれた木陰の「鎮魂の碑」や、そびえ立つ廃墟の製紙工場とは違い、旧真岡郵便局跡はL字型のビルが建ち、平屋の本館庁舎があった場所は小さな広場になっていた。
 1945年8月20日、ソ連軍の真岡上陸での戦闘中、真岡郵便局の電話交換手の女性たちが自決を図り9名が亡くなった。ソ連占領後も建物の機能が引き継がれ、郵便局として利用されていた。そのため今のビルになってからも、その一角に郵便局が設けられている。 ちょうどその場所が、事件の起きた2階建ての別館跡であった。
 稚内公園には、慰霊碑の「殉職九人の乙女の碑」が建立されているが、現場となったこの場所には何もない。その何もない広場を、私たちは写真に収めていた。

ユジノサハリンスク(豊原市)
 国境線の跡地があるポロナイスク(敷香町)やシネゴルスク(川上村)からユジノサハリンスクに戻ると、都市の賑やかさに安心する。サハリン州全体の人口は減少しているが、ユジノサハリンスクに人口が集中しており、住宅地は日本時代を基礎とした市街地では足りず、郊外に広がっている。シネゴルスクの炭鉱が閉山したとき、行政の手が回らないため、住民の多くがユジノサハリンスクの新たな住宅地に移されたという。
 市街地南部も新興住宅地として開発中だが、建築中のタワーマンションの塀に貼られた完成予想図には、市街地中心部とはまったく別の雰囲気の高級住宅街が描かれていた。その先には大型商業施設の「シティモール」があり、ツアー終盤に案内された。高価な装飾品店やレストラン、映画館が入っている最新の商業空間は、今日まで見てきた「サハリン」のイメージを一変させる世界だった。
 ここには日本時代、大沢という豊原市郊外の農村集落があり、私の祖母とその兄弟たちが暮らした場所だった。休みの日には自転車に乗って豊原の町に映画を見に行ったという思い出話のとおり、市街からちょうどいい距離の場所であった。ソ連軍が侵攻し、緊急疎開で村を離れるとき、曾祖母は子供たちに「ここはもうよその国の土地になるから、持てるだけとっていきなさい」と言い、まだ十分な実りのない作物を畑から持たせという。その畑も、シティモールや広大な駐車場の下にあるかと思うと、国家の移り変わりだけでなく、経済による土地への影響に驚かされる。

終わりに
 帰国前日、ユジノサハリンスクの市街地を1日中、散歩していた。夕方、美術館(旧北海道拓殖銀行豊原支店)の前のバス停で乗り降りする人たちを眺めていると、どこにでもある普通の日常があった。チェーホフ像の周りで鬼ごっこ(?)をする子供たちや、映画館の前で待ち合わせしている青年たちのグループも、見学してきた墓碑や記念碑に刻まれた人々のようにサハリンの歴史を作っていくのだろう。シティモールができる一方で、新たにロシア正教の教会がいくつも建てられており、風景はこれからも変わっていく。
 サハリンには中央アジアからの移民が多く、ツアーのバスの運転手もカザフスタンから来たという。世代を経れば、大陸ロシアの縮図のような多民族・多文化の社会となるだろう。歴史が積み重なっていくと、現地では日本時代がますます遠ざかっていく。樺太の記憶は、日本で伝えていかなければならないという思いが募った。

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国境ツアー「北緯50度の日本国境を訪ねる開眼経験」            八谷 まち子  

 2015年9月9日から15日までの「サハリン国境紀行-2つの国境を超える旅」は本当に面白かった。細長い日本の南部である九州育ちの私には、ヨーロッパよりも遠い地域であった日本の北端を訪れ、さらにその続きのような樺太の地を踏むことは、地理的のみならず新たな事実の視界が大きく拡がる体験であった。加えて、ほとんどが初対面同志の参加していた人々がなんとユニークであったことか!

 私にとって北の地域がいかに遠いものであったかを恥をしのんで白状すれば、まず、樺太とサハリンが同じ所であると認識していなかった、サハリンとはウラジオストクを通って行く街だと思っていた、そして、日本地図の突端の町としか理解していなかった稚内から船で行ける所だとは想像もしていなかった。単に地理の知識が欠如した無知であっただけではあるが、ことほどさように気持ちも遠い所だったのである。したがって、サハリンへ出発するために集合した稚内空港から日本最北端の宗谷岬を巡る機会をもらったことは、早くも旅のハイライトであった。まだ目的地へ出発もしていないのに「ああ、遂にここまでやって来た」とこの上ない感慨に浸った。本当に感激ものだった。宗谷海峡は発見者の名を取ってラペルーズ(La Pelouze)海峡という国際的な名称が有ることも知った。そして、小学校で習った間宮林蔵が、ラーメンにまで名づけられているように、いかにこの地では日常的に立ち現れる存在であるかを知って、まず第一の驚き。いたるところで彼の銅像(いつも小ぶりであった)や、足跡と業績の記述にお目にかかった。

 翌日、宗谷海峡で苦難の国境超え(木村崇先生の紀行文をご参照ください)を経験してコルサコフ港へ到着、そしてユジノサハリンスクへ。なんとエキゾチックな名前であることか!しかしどの町にも全てれっきとした日本名があることを、これまた初めて知った、曰く、大泊港から豊原へ。豊原(ユジノサハリンスク)の立派な郷土史博物館は日本国旧樺太庁の建物だという。豊原の町のあちこちに日本統治時代の建物が残されている。しかし、それらは説明がなければ、そして歴史を踏まえていなければ、単なるロシアの地方都市の街並みの風景に埋没してしまう。北緯50度の日ソ国境線までの途上にも日本の歴史の一端を刻んでいるいくつもの場所がある。しかし、私にはそのどれもが初めて出遭った史実に等しく、これまでの無関心のベールを次々と剥がされるような思いだった。と同時に、北であろうと南であろうと、それぞれの土地に人々の営みと密着した逸話と史実があるという、きわめて当然のことに気付かされることになった。

 私にとって正真正銘の学びとなったのは、北方少数民族についてである。私たちが「アイヌ」と呼ぶ原住民族がおり、2008年に日本はようやく彼らに「原住民」の地位を認めたという程度の知識に過ぎなかったが、北海道から樺太、さらにロシア本土にかけて多様な民族がそれぞれの暮らしをしているということを知った。さらに、彼らの生活も、国際政治の変転に大きく影響されていることの片りんを学んだ。ここでも、目線と思いがグッと個人の生活レベルへ引き寄せられることになった。

 こうした目から鱗を落とすような実感を重ねて帰国して南の地域での日常に戻ったが、私の視界が北まで広がったことを確認したことがあった。自宅では全国紙の朝日新聞と地方紙の佐賀新聞を読んでいる。その佐賀新聞で、これまでであればほとんど注意を払わなかったであろう記事を見つけてやや興奮した。ひとつは、「樺太アイヌの苦難」と題した全面記事である(10月9日)。落帆(現、レスノエ)から日本への引き揚げを余儀なくされたアイヌの家族の歴史と金田一京助そして金田一秀穂との交流を紹介している。もはやこの記事は私にとっては単なるエピソードではありえなかった。樺太の風景やアイヌの人々の暮らしぶりを目に浮かべ、抗えなかったであろう苦難に思いを馳せる。『オホーツクの灯り』を是非読もうと思う。

 もう一つは、樺太ではあちこちで目にしたタラバガニの話。やはり佐賀新聞が、ノルウェー最北端の小さな漁村がタラバガニの輸出で大いに潤っているという記事を掲載していた(11月15日)。このタラバガニは、欧州には生息していなかったが、ソ連の科学者が漁獲資源を増やすために1960年に北太平洋から持ち込んでバレンツ海に放流し、大繁殖したという。ノルウェーでは、外来種であるので駆除すべきとの意見もあったが2002年から資源としての商業捕獲が認められ、商業的に成功して伝統漁も回復して家計を潤しているという。「自由市場」ではどこでも売られていたあの大きなタラバガニ!ウォッカと相性がいいと嬉しそうだったあの顔とあの顔!!北の世界だ。

 どうしても書きたい余談がある。
 ツアーの間、ずっと同行してくれたガイドのガリーナさんは大変流暢な日本語を話される。その彼女が、ユジノサハリンスク市内の案内で、レーニン像が立っている大通りを「ミーラ通りです」と紹介した。何しろ町の中心の通りだから何度も行き来をするがそのたびに「ミーラ通りです」。日本人には「ミイラ通り」と聞こえてなんだか居心地が悪かったが、遂に木村崇先生が声をあげられた。「そのミーラというのはミール(平和)が格変化したものでしょう、通りの名前は平和通りだから、ミール通りと言った方がいいよ。」なるほど、平和通りだったのか、と納得。しかしこれで一件落着ではない。ツアー最終日は再びユジノサハリンスクへ戻ったが、その日はサハリン州知事の選挙の日であった。立候補者は数名いたらしいが、ポスターはプーチン大統領が送り込んだという一人の候補者のものしか街中には貼り出されていなかったので、実態は信任選挙だということだった。この候補者は、前任の知事が汚職の疑いで逮捕され、代理知事としてモスクワからやって来た人らしいが、前任知事も、実は大統領が送り込んだ人だったという。サハリンという辺境の地で「汚職を取り締まる」知事の権限を自由に振りかざし、度が過ぎると大統領に睨まれて汚職を立件されるというわけだ。「ミイラ取りがミイラになるんですね。」そうか、やっぱり『ミーラ通り』は正しい名前だったのだ。

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  はずみで参加したサハリン国境紀行               大須賀 みか

  「樺太」から70年目のサハリン                  鈴木 仁

  国境ツアー「北緯50度の日本国境を訪ねる開眼経験」   八谷 まち子


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[2015.12.15]

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