Essays
乾燥地と国境
地田 徹朗(名古屋外国語大学、JCBS理事)
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今年度より、特定非営利活動法人国境地域研究センターの理事に就任いたしました、名古屋外国語大学の地田徹朗と申します。2011年より北海道大学にてGCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」に学術研究員としてかかわらせていただいて以来の境界研究とお付き合いになります。元々、私自身の専門分野はソ連史であり、旧ソ連の民族問題や環境問題について主に研究しておりました。よくよく考えると、自分の研究課題は「境界(ボーダー)」の問題と密接にかかわっていたのですが、学術研究員として採用された当時は、その「境界(ボーダー)」そのものとは如何なるものなのかということを主体的に考えるということは(お恥ずかしながら)ほとんどありませんでした。理論と国内外の実態の両面について、プロジェクトの進展と共に私も学び考えてゆき、同僚たちと議論を重ねながら、気づいたら境界研究にめり込んでいたというのが正直なところです。
北大時代は、GCOEプログラムが終了した後も、境界研究ユニット(UBRJ)にもかかわらせていただくという光栄に浴しました。北大時代の経験は様々な意味でかけがえのないものです。その一つは、もちろん、国内外の境界研究のコミュニティと繋がることができたということですが、中でも、境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)をつうじて、日本の国境自治体の方々とお付き合いをさせていただいた経験は私の中で非常に大きなものでした。ご承知のとおり、日本の地方では、国公立か私立かにかかわらず、大学と地方自治体とがタッグを組んで地域創生や地域振興の課題に取り組むということがここそこで行われています。ところが、人文・社会科学系の「純粋な」研究にのめり込むほど、こうした官学連携や社会貢献といったことからは疎遠になりがちです。こう言っては何ですが、歴史研究者を自認して「生意気だった」私はこうしたことから縁遠い人間だと思い込んでいました。しかし、最初は及び腰だったJIBSN関連のお仕事も、やらせていただくうちに、徐々に楽しいものに変わっていったのです。私のメインフィールドは中央アジア地域なのですが、いわゆるユーラシアの「陸の国境」と日本の「海の国境」にも共通点があったりする。そのような学術的な自分の中での「発見」だけでなく、自治体職員の方々とのお付き合いの仕方を学べたことも非常に大きいものでした。このエッセイも実は、北海道白老町役場と連携しながら実施する勤務校の「地域創生科目」の実地研修に向かう途中の機内で書いています。北大での経験がなければ、このようなことは不可能だったでしょう。
北大時代の経験でもう一つ感謝していることは、とにかく国外での調査経験を積ませていただいたことです。とにかく、「現場に足を運ぶこと」の重要性を叩き込まれました。元はアーカイブなど文字資料にのみ依拠した研究ばかり行ってきた私が、2013年以来、毎年のように自分のメインフィールドであるアラル海地域に足を運び、現地の住民、自治体職員、研究者の方々と語らうようになりました。ご存じの方も多いと思いますが、アラル海は1960年以来、灌漑向けの過剰な取水を理由として縮小をつづけています。かつては水面であった場所が今や沙漠と化しているのです。
かつて、アラル海はソ連国内、カザフ共和国とウズベク共和国という二つの民族共和国に跨がる湖でした。しかし、1991年12月にソ連が解体したことによりカザフスタン共和国とウズベキスタン共和国という二つの独立した主権国家に跨がる越境湖沼となってしまいました。しかも、アラル海の大半が干上がり、旧湖底の大半が沙漠と化したことで、新たな沙漠の国境を抱えることになりました。ソ連時代、アラル海に水があった当時は北東岸のアラリスクと南西岸のモイナクとの間で水運が発達し、人とモノとが頻繁にアラル海を行き交っていました。カワカマス、コイ、チョウザメなどの好漁場でもありました。アラル海上のヴォズロジジェニエ島には軍事施設・秘密都市である生物兵器の実験場があり(ソ連解体後に廃止)、そこに向けての水運もありました。しかし、水が干上がり、漁業が壊滅し、水上交通がなくなると、アラル海をつうじてのモノだけでなく、公の人の往来もなくなります。ソ連が解体して国境が出現すると、アラリスクやムイナク、その周辺の村々は「国境の街」になったわけですが、国境を跨いでの情報の流通もなくなります。沙漠の国境とは、モノや情報を寄せ付けない「壁」となったのです。アラリスクやその周辺の村々の住民に(旧)対岸のウズベキスタンの事情、ウズベキスタン側のヌクスの住民にカザフスタンの事情を聞いてもまったくといって知らないという状態です。役所や公的機関の人に聞いても、沙漠化や塩害といった抱えている事情は共通しているにもかかわらず、経験や情報の共有が国境を跨いで行われている様子は伺えません。
しかし、人の越境が完全になくなったかというと必ずしもそうではありません。カザフスタンとウズベキスタンの国境は警備の対象となりますが、周囲に集落のない国境地域の警備は容易ではありません。よって、国境は「孔」があいています。カザフスタンでは、独立後の経済混乱期に現金収入を得るために車で違法に越境をして、廃墟と化したヴォズロジジェニエ島の旧秘密都市にくず鉄を集めに行ったという話を聞きました。今でも、廃墟マニアが違法に越境して旧秘密都市を見学に訪れることもあるようです。日本の海の国境についても、ボートピープルや密漁者などが越境することがままあります。似たようなことが沙漠の国境でも起こり得るのです。
乾燥地の境界について別の側面から考えてみましょう。草原ステップや沙漠・半沙漠が卓越する乾燥地では、灌漑農業が可能な河川流域を除いて、定住地をもたずに移動家屋や家畜と共に通年移動をする遊牧、冬営地を基盤としつつ季節移動をする移動牧畜(トランスヒューマンス)が伝統的な生業でした。移動牧畜民は、父系出自集団である氏族共同体を軸として移動径路や放牧地の範囲がゆるやかに決まっていましたが、それは境界の概念とは非常に折り合いの悪いものでした。しかも、雪氷害や干ばつなど緊急事態には、移動して避難しないと生存にかかわってきます。しかし、国境など物理的な境界が引かれることで、人と家畜を設定された行政境界内に押し留めようという発想が生まれます。そして、国家がしかるべき時にしかるべく徴税を行うためには、人々が定住していたほうがよいと考えられるようになります。中央アジアでは、近世に存立していたヒヴァ、ブハラ、コーカンドの三ハン国は周辺の移動牧畜民とつかず離れずの関係を作り上げてきましたが、ロシアが南下して行政境界を設定するにあたり、国家と移動牧畜民とがそのモビリティをめぐってコンフリクトを引き起こすことになるのです。それがもっとも悲劇的な形をとったのが、1929年末に始まる強制農業集団化と定住化政策でした。エコロジカルな生業であった移動牧畜が否定され、コルホーズへの定住化が試みられる中で当時のカザフ人人口のやく3分の1が失われたのです。
アフリカの乾燥地では未だに移動牧畜民が平然と越境して放牧するようなケースもまだ残っているようです。しかし、「ボゴハラム」など過激派武装集団の越境による安全保障意識の高まりや、先進国や中国が支援する形での国境地域の経済開発は、このような移動牧畜民の生業を脅かすことになるかもしれません。移動牧畜民の「近代化」と境界との関係性は今後きちんと検討しなければいけない課題なのです。
以上、国境地域研究センターをはじめとする日本の境界研究コミュニティとかかわらせていただく中で、私が考えてきたことを簡単に説明させていただきました。上でも述べましたとおり、沙漠の国境と海の国境とは似ているところも違うところもあります。今回は「乾燥地と境界」ということを述べさせていただきましたが、自然条件の違いと境界(国境)の性質の違いの比較検討も今後の我が国の境界研究の重要な課題と言えるのかもしれません。
[2019.8.31]