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三度目の中露国境紀行  
 —「血の河」アムールをめぐる記憶の平行線 —  [pdf版]

木村 崇(京都大学名誉教授、JCBS会員)
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 二度目の中露国境ツアーを体験した昨年、見えそうで見えなかった問題点の核心にようやく触れたような気がした。ロシアの帝国主義的貪欲が全アムール河獲得に向かった根源的な理由を解きほぐせば、ロシアの極東支配の全体像が浮かび上がってくるのではないかという、漠たる予感ではあったが。
 東シベリア総督ムラヴィヨフという歴史上の人物が問題を解く鍵を握っているのはわかっていた。さいわい4月から7月はじめまで、北大スラブ・ユーラシア研究所に寓居を許されるという好機を得たので、ネルチンスク条約締結から愛琿条約、北京条約調印まで、160年間の中露関係についての文献に当たることができ、予感がほのかな確信にかわる程度の知見は得られた。
 7月中旬に滞在先をサンクト・ペテルブルグに移した。在札幌ロシア総領事館で5年の数次ビザを発給してもらったので、日本から発つ中露国境紀行の一行とハルビンで合流し、アムールを渡河往復したあと大連でふたたび団とは別れてロシアへもどるという複雑な旅程も、気持ちの負担にはならなかった。それに今回の中露国境紀行で私に期待されていたのはチェーホフがサハリンへ向かう途中、ブラゴヴェーシェンスクで過ごした一夜の体験について解説をすることだったので、気楽に過ごしていた。ところが直前になって国境紀行立案者から、シペリア出兵時の全村民焼き殺し事件と、義和団事件時に生じた江東六十四屯の虐殺についても解説できるように準備してくれというメールが届いた。事件のあったイワノフカとコンスタンチノフカという二つの村へ入る許可が下りたからというのである。準備をしようにも手元には資料が皆無である。必要な文献の中の関連がありそうな個所だけでもコピーして送ってもらいたかった。コピーはぎりぎりのタイミングで届いたが、ふたつの事件はムラヴィヨフの時代から何十年も後のことで歴史的背景がまるで違う。何度読みかえしても固有名詞や数字のたぐいは自分の記憶装置に保存できなかった。いよいよペテルブルグを離れる日をむかえ、開き直るしかないと覚悟を決めた。
 ソ連時代はアエロフロート一社がソ連の空路を独占していたが、ロシア連邦になってずいぶんと分社化がすすんだ。今回利用したのはウラル航空という、日本ではなじみの薄い航空会社である。エカテリンブルク発の同社の国際便を利用すれば、ペテルブルグからは乗り継ぎ時間を含めても六時間ほどでハルビンについてしまう。到着が日付の変わる深夜になるので、一行と合流するには前泊する必要があったけれど。

 

 翌日の夕刻、恒例の旅行前講習会が行われる松花江のほとりの会場に行くと、その日の夜遅く合流する二人以外の一行がすでに着席していた。顔見知りが多くてほっとした。団長の岩下さんから訪問予定地についての概説があった。ついで黒竜江省社会科学院ロシア研究所の封さんが、中ソ・中露間の貿易の歴史における劇的変遷について話してくださった。おかげで今回訪れる土地にまつわる問題の奥深さがわかってきた。
 8月27日朝、中国南方航空機で黒河に移動。なぜこんな北のはての地方まで「南方航空」が席巻したかという話を岩下さんから聞いて、同じく「社会主義」を標榜する国でも、現代中国とソ連とでは本質的に違っていたことを実感した。資本主義に移行した後、分社化された旧アエロフロート各社が生き残りをかけて、はたして現代中国のような壮絶な市場争奪戦をやっているだろうか?ウラル航空の腑抜けたような運行ぶりから推察するかぎり、それはありえないと思った。国際線なのに映像モニターがない。着陸態勢に入って高度を下げはじめているのにベルトのサインは点灯せず、アナウンスのみ。空席に荷物が置きっぱなしになっていても、背もたれを寝かせたままの席があっても、客室乗務員のおばさんはまったくの無頓着。前席の若者がスマフォでビデオを見ている。離陸以来音声をずっと流しっぱなしにしていた。さすがに我慢できなくなって、そのおばさんを呼んで注意してもらった。彼女は飛行中そのそばを何度も通り過ぎたのだが、迷惑行為とは思わなかったらしい。
 黒河では、十年ほど前までは担ぎ屋集団がひっきりなしに出入りして活況を呈していたに違いない「卸売りセンター」の巨大な廃墟を見た。反対側を見るとだだっ広い広場をはさんで「自由市場」の建物があった。こちらは、右半分がロシア物産(関西弁で言うバッタモンが山積みされていた)を専門に扱う建物だが、顧客はまばらだった。暇をもてあましてか、中国人店主たちがカード賭博をやっていた。左半分は巨大なスーパーになっていて、こちらにはそこそこの品物とそれなりの数の買物客がいた。
 つぎに訪れた「民族村」と称する野外博物館施設には拍子抜けさせられた。アムール沿岸に住み狩猟・採集をなりわいとする少数民族(ガイドの説明からは、その民族名はついにわからなかった)を紹介しているらしい。習俗や宗教儀礼に関連したモノが、その民族固有のテント小屋に見立てた大きなピラミッド風の内部空間に、無造作にならべてあるだけである。説明文らしいものは見あたらなかった。表に出るとなぜか巨大なマトリョーシカが並んでいる。その先にはロシアの女性兵士たちが住んでいたというロシア風ログハウスからなる村落があった。それは朝鮮戦争で戦死した毛沢東の息子が育った村であるらしかった。しかしよくよく見ると、これは映画のセットをそのまま保存したものだった。たしかにロシア人やカザキー(いわゆる「コサック」)も、アムール沿岸に住む民族には違いない。しかし、映画のセットをそのまま野外博物館に転用するという中国人の神経の太さには恐れ入った。ロシア製のアイスクリームが売られていた。皆さん結構食べておられたが、製造年月日を見て驚いた。今年の製造ではあるものの2月某日製と書かれていたのだ。消費期限や賞味期限の表示は見あたらなかった。

 

 いよいよ対岸のブラゴヴェーシェンスク(以下「ブラゴ」と略する)に渡る8月28日の朝がきた。中国とロシアのフェリーが交互に発着している。売り場で買えるのは中国船の切符だった。中国人客が我先に乗り込み満席になってしまったので、フェリーは私たちを置き去りにしたまま出てしまった。思いがけず、場内で乗船を取り仕切っている男が、次に出るロシア船用の乗船切符を売ってやるといって袋から取り出した。二重払いになるが時間がもったいないので購入。さいわい後日、未使用の中国船往路の切符は払い戻しができたようだ。
 アムール河を横切る時間はわずか5分ほどであった。ロシア側への入国手続きは「特別客」扱いで、他の乗客から隔離して行われた。ホテルのチェックインをすませ、ざっと市内見学をしたあと昼食。岩下さんがバスの運転手となにやら難しい交渉をやっていた。帰路はなるべくアムール河に近い、舗装道路のないルートを通れないかとお願いしているらしい。運転手はかたくなに断っていたが、食後どういう風の吹き回しか承諾した。これが彼にとって大きな誤算になることは、その時点では知るよしもなかった。
 私たちはアムール州の最南端(南東方向に流れていたアムール河がそこで大きく北東方向へと蛇行する地点)にある、ブラゴから7,80キロほど離れたコンスタンチノフカ村に向かった。この村は昨年訪れたカザケーヴィチェヴォ村と同じく、砦の機能を持ったカザキーの軍事施設である「スタニッツァ」を前身としている。村名は大公コンスタンチン(時の皇帝ニコライI世の弟君)の名に由来する。ブラゴ周辺では、のちにヴェルフニェ・ブラゴヴェーシェンスク(訳せば「上ブラゴ」)となる地点に最初のスタニッツァが作られ、コンスタンチノフカは二つ目だそうだ。これらの軍事施設はすべて東シベリア総督ムラヴィヨフの指示で設置されたものである。コンスタンチノフカという場所の選定にあたっては、対岸にある清国の愛琿鎮(城)を視野に、有事の際の可能性あらゆる角度から検討したことであろう。
 村役場前の広場にはコンスタンチン大公を顕彰する立派な記念碑がそびえていた。村長さんが小走りで出てきて、アムール州最南端の、こんな辺鄙な土地までまでお越しいただき感謝したいと、満面笑みをうかべてフレンドリーな挨拶をしてくださった。
 わりと大きな郷土博物館がここにもあった。「鄙には稀な」という感じの大きな教会もあった。だが教会なのに国旗が掲揚してあるにちょっと引っかかった。郷土博物館はロシア連邦では児童・生徒に郷土の自然と歴史、それに祖国愛を教育する施設として、どこにもかならずおかれているようだ。御多分に洩れずここにも村出身の「大祖国戦争英雄」として5,6人の写真が飾られていた。屋外の戦没者名を刻んだ碑には百名を超える数の名が刻まれていたが、「英雄」とそうでない人とは、おそらく受けた勲章の位や数で線引きされるのだろう。
 学芸員の年配の女性は実に学識豊かな人だった。姓がウクライナ系だったので失礼をかえりみず出自を尋ねるとブリヤート人とのことだった。彼女は東シベリア総督のムラヴィヨフが「上ブラゴ」とここの2個所にスタニッツァを設けた理由は、河口部までの全アムール河左岸とウスリー河の右岸全体(つまり間宮海峡の東側に面した軍港建設可能地)を確保し、軍事利用することにあったと断言した。「カムチャトカにあるペトロパーヴロフスク軍港」の防衛のためには、それが死活的重要性を帯びていたからだと説明されたのを聞いて、思わず膝を打ちたくなった。札幌で実は私も同じ結論に達していたからである。
 帰路は延々と走行困難な個所が続いたため、夕食時間には二時間も遅刻する羽目になった。運転手は不機嫌極まりなしという風情であった。それでも、添乗員の畔上さんが録音して持参したCDで、ご自分が愛してやまないロシア歌曲を流したので、皮肉交じりの軽口を叩くだけでなんとかこらえてくれた。超過勤務手当はおそらく出してもらえないだろうと同情したが、怖くてきけなかった。

 

 バスの運転手にルート変更をもちかけた岩下さんは、江東六十四屯の跡地をぜひ私たちに体験させたいと考えていたようだ。アムール右岸は農地に適した土地が少ない。だから中露国境が引かれた時点で、その昔左岸に渡って農地を開拓し、64の村に分かれて農業を営んでいた満州族らの清国臣民がおよそ1万人いた。彼らは1858年の愛琿条約発効後も居住を許されて清国臣民としての権利を保障されていた。ところが1900年に山東省で起きた義和団事件は遠方のこの地にまで波及し、アムール河左岸に定住していた清朝臣民の大量虐殺という惨事にまで発展した。その痕跡は120年ちかく経った今では残っていないが、その場に立てば想像力を働かせることは出来る。岩下さんはそう考えたにちがいない。
 当時中国人はブラゴ市内にも大勢おり、ロシア人市民の生活の便をささえる小売業やサーヴィス業に従事していた。住み込みのお手伝いさんや子守、小間使いの男児たちもいた。この人たちも犠牲者になった。現地のカザキー兵や転属してきた正規兵からなる駐屯部隊が老若男女を問わずかれらを引きずり出し、市の中心から8キロほど離れた「上ブラゴ」へ連行し、馬上から剣で突いたり切りつけたりし、あるいは河に突き落として銃弾を浴びせかけたらしい。この事実そのものはロシア側も否定はしていない。市の下流側でも、ゼーヤ河が合流するあたりでおなじことが行われたという。これとは別に、このコンスタンチノフカ村からアムール河沿いに数十キロにわたって拡がる広大な農村地帯でも、ロシアの駐屯部隊が全村の農民たちをアムール河に向けて追い立て、ジェノサイドといってよい殺戮を行った。ブラゴの事件は1900年7月16日だが、六十四屯の方は翌17日のことであった。

写真1:ブラゴ市内の郷土史博物館の説明

 事件のあらましについては、被害者であった中国側から発せられる情報が格段に豊富だが、後に述べるように真偽のほどは慎重に確かめる必要がある。ブラゴでの事件についてはわずかだが、ネット上でロシア側の情報も見ることが出来る。ブラゴ在住の作家が書いたものらしく、客観的立場を貫こうとする真摯さはうかがえるが、出典が全く示されていないので真偽を確かめるすべがない。またこの人は江東六十四屯における虐殺事件については何も書いていない。
 ロシア側の言い分によれば、事件は清国側から砲撃がなされたことで始まったという。それがなければ事件は起こらなかったと言いたいのだろう。ブラゴ市内の郷土史博物館の説明ではそうなっている(写真1)。しかし砲撃されたことで「好機到来」とばかりに、反撃行動の口実を得たと考えたロシア軍関係者がいたというのが、真相に近いのではないだろうか。レンガ造りの壁に砲弾跡が今も残されているのも(レニングラードのアニチコフ橋にわざと残してある砲弾跡と同じく)、後日の弁明に供するためだと思う。犠牲者の数は中国側のものもロシア側のものも推定値でしかないが、両日の事件でそれぞれ数千人にのぼるのは間違いないだろう。問題は殺戮という行為の規模よりも、なにゆえそこまで異常な拡大を見せたのか、その原因・動機はどこにあったかであろう。誰による、どんな判断がそうさせてしまったのかという問題を解き明かさない限り、歴史的事実の本質には迫れないと思う。これでまた一つ宿題を抱えてしまったようだ。

 

写真2: 東シベリア総督と僧正の銅像
 8月29日は午前中市内見学をした。最後の皇帝ニコライII世は大津での受難のあと、大陸横断鉄道起工式のためウラジオストークだけでなく、ここブラゴにも船を着岸させてアーチ型の門をくぐり、徒歩でニコールスキー大聖堂を訪れたという。大聖堂の裏側にある、条約文書を握りしめた東シベリア総督が着座した僧正の右横に並び立つ銅像には違和感を覚えた。また境界敷地内に国旗が常時掲揚されているのは異様きわまりない光景だった(写真2)。しかし考えようによってはむしろ、これはロシア正教が国策遂行の積極的担い手であったことを真っ正直に物語っているのかもしれない。愛琿条約交渉の場を後日想像して描いた有名な絵があるが、画家は当時の僧正が同席していたと誤解したのも、うべなるかなである(写真3)。
写真3:愛琿条約交渉の場を描いた絵

 現地ガイドはチェーホフのレリエーフがかかっている建物のそばで、作家がブラゴで「芸者遊び」をし、彼女をモスクワに連れ帰ったという話が伝わっていることを紹介した(写真4)。
写真4:チェーホフのレリエーフ
ところがチェーホフはその日本女性を棄てたため、彼女は傷心してパリに移り住んだと言うのである。旅行の目的地がサハリンだったことは、ブラゴの人たちにとってはどうでも良い話だったということなのだろうか。外国では芸者が女郎とよく混同されるが、まことにもって荒唐無稽で不届き千万な話である。イワノフカ村はブラゴから40キロほどで、この日のバスは順調に走り、無事時間通りにホテルに戻ることができた。夕食時にチェーホフの「シベリアの旅におけるブラゴでの一夜」が本当のところはどうであったかを披瀝したが、思わず熱が入って話が長くなり、食卓を囲む皆さんにご迷惑をお掛けすることになってしまった。
 午後に訪れたイワノフカ村は、今では人口が8000人(周辺地区をあわせると1万2000人)もあって、学校、病院、上下水道、福利・文化施設など、標準的都市機能をすべて備えているというのが住民の自慢のようだった。湿地特有の水はけの悪さを緩和するため人工池を二つ作って「白鳥の湖」とし、大人も子供も楽しめる憩いの場にしていた。
 シベリア出兵時にパルチザン(ゲリラ活動家たち)にひどく苦しめられた日本軍が、その報復に「活動家の拠点」とみなしたこの村の村民を小屋に閉じ込めて焼き殺した現場である。ゲリラと農民の区別はつかないので、皆殺ししてしまえということらしい。規模は違うが、南京虐殺を引き起こしたのと同じ、侵略する側の「論理」である。印象的だったのは、ブラゴで強制的に不等な労働を強いられた日本の抑留者たちが、この村の広場に建てられた塔に、悔恨の気持ちと和解を訴える碑文を掲げていたことだ。ブラゴには抑留者たちが働かされていた工場跡が市内のあちこちに残っていた。毎年ブラゴを訪れる元抑留者たちがいるらしい。ソ連という国に対する抑留者体験者の気持ち、ソ連人に対する評価は一様ではなかったことは知っていた。しかし、20年以上前の日本軍がはたらいた許されない行為を、自分たちに引き寄せて考えることのできる人たちがいたとは。つくづく自分の理解の皮相さを思い知らされた。
 夕食も終わりかけた頃、花嫁が介添人に連れられて私たちの部屋に駆け込んできた。近年流行っているらしい「花嫁隠し」という、一種の披露宴おあそびであった。新郎は可哀想にもコップになみなみと注がれたウォトカを飲み干さなければならなかった。私たちが「ゴーリカ」と囃し立てると、カップルは嬉しそうに長々と接吻して見せてくれた。

 8月30日朝、同じ桟橋から今度は中国船で黒河に戻った。どういうわけか一人あたり500ルーブルの「入港税」とかいうものを取られた。昼食をすませたあと、愛琿歴史陳列館見学に出発。愛琿城塞あとに建てられたこの施設はその規模といい、陳列品の多さといい、中国語・英語・ロシア語で書かれた解説の徹底ぶりといい、ブラゴの郷土博物館をはるかにしのぐものであった。

写真5:愛琿歴史陳列館の地図

 ではその中身はどうかというと、私には大きな不満が残った。たとえばネルチンスク条約については札幌滞在中に多少勉強していたので、清国側にもロシア帝国側にも双方が国境画定に異議なく同意できるような正確な地図は存在しなかったことを知っていた。しかし、陳列館に示された地図は、今日の政治地図の精度で描かれている(写真5)。今日の観点からすれば、条文自体に法理的不備があることはたしかである。現にそれから160年を経てロシアが愛琿条約締結を強要出来た裏には、アムール河の河口付近の帰属が、ネルチンスク条約の条文からは確定できないとするロシア側の主張(我田引水的ではあるが)に押し切られたからなのである。
写真6:サハリン(樺太)全島が清国領の地図

 1860年の北京条約に至って、清国もようやく当時の国際法で了解されていた近代的「国境概念」や「領土概念」を共有するようになった。それまでは「華夷秩序」に基づく「冊封関係」的な国家間の「境界」理解しかなかったはずなのである。なのに、たとえばサハリン(樺太)全島が不届きにも、清国領として示されている(写真6)。この手の理屈に従えば、北九州一体あたりも中国領とみなしてかまわないのではないか。「漢倭奴国王印」という紛れもない「物証」があるくらいなのだから。尖閣列島の帰属問題も、歴史文書の扱いようによっては、冊封的価値観がいつの間にか近代的国境概念にすり替えられかねない。問題はこの陳列館を作った専門家たちが、その本質的な違いを「わきまえていない」ように感じられたことだ。
 午後に訪れたイワノフカ村は、今では人口が8000人(周辺地区をあわせると1万2000人)もあって、学校、病院、上下水道、福利・文化施設など、標準的都市機能をすべて備えているというのが住民の自慢のようだった。湿地特有の水はけの悪さを緩和するため人工池を二つ作って「白鳥の湖」とし、大人も子供も楽しめる憩いの場にしていた。
写真7:イワノフカ村の「ブラゴ事件」パノラマ
 一通り見学を終えたあと、館長が懇談会に招いてくれた。主任学芸員の方も列席されておられたが、通訳の問題もあって、私の問題指摘はどうにも相手に通じなかった。「ブラゴ事件」を音響と光を使って再現する大規模なパノラマ館があった(写真7)。たしかに臨場感は得られる。しかし、どうしてこのような悲劇が起こったのか、どこに清露間の齟齬があったのかはよく分からない。展示物を見てもレーニンや、当時事件を目撃者した日本人の石光真清の「証言」がそのまま掲げられている。資料批判の手続きを省いて「いいとこどり」する姿勢からは、この歴史陳列館が歴史研究の成果を示すことより、「愛国教育」の機関としての機能を重視しているという印象を強く受けた。ロシア国民は入館を許されていない、ときいてさらに驚いた。それならロシア語の解説文は誰のためのものなのだろうか。館長は一人のロシア人歴史家を招いたことがあったことを明かしてくれた。団員のどなたかが「どんな反応でしたか」と尋ねたところ、苦笑いをうかべて「全面的に同意できないといわれた」と答えた。反対に中国からブラゴへ渡って郷土博物館を見学しても、同じような結果に終わるに違いない。はたしてこれでいいのだろうか。
 私たちはこの後大連に行き、旅順を訪れた。だがこのエッセイを書こうと思い立ったのは、わずか700メートルしか離れていない中露の両地点で、アムール河をめぐる記憶が絶望的なまでに平行線をたどっているのはなぜかを考えるためだったので、このあたりで終わろうと思う。

[2018.10.26]


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