Essays
ボーダーツーリズム in サハリン『サハリン北緯50度 旧国境を行く旅』
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「樺太の今を訪ねる」
2018年7月12日~16日
斉藤マサヨシ(写真家、JCBS会員)
サハリン全行程約800キロの旅の始まり
2018年7月12日、ユジノサハリンスク空港行きのオーロラ航空HZ4537便は1時間半遅れて午後3時55分新千歳空港を離陸した。
ユジノサハリンスク空港までのフライト時間は1時間25分。
50人乗りのカナダ製ボンバルディア機は満席で、乗客は日本人とロシア人がほぼ同じ割合であった。
サハリンは日本との時差が2時間ある。現地時間で午後7時30分ユジノサハリンスク空港に到着。
専用バスで空港エプロンを移動、入国手続きを終えて空港ロビーに行くと現地ガイドのビートモ社ターニャさんが笑顔で出迎えてくれた。
霧雨のユジノサハリンスクは午後8時を回っても明るさが少し残っている。30分ほどでホテルパシフィックプラザサハリンに到着。
少し遅い夕食を取った後、明日からのロングドライブに備えた。
サハリンは北海道とほぼ同じ面積だが、南北に約950kmある。
作家の司馬遼太郎さんは街道をゆくの中で「鮭を吊るしたような島」と表現している。
サハリンは日本列島と古代から密接に関わってきた。日本人のルーツは朝鮮半島を経由した大陸ルート、
先島諸島を経由した南方ルート、そしてサハリンを経由した北方ルートとされている。
1875年日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結された。
それまでのサハリンは主のいない自由な土地で、樺太アイヌ、ニブフ、ウイルタなどの北方少数民族の人々が独特の伝統文化を持ってくらしていた。
1904年日露戦争が勃発、勝利した日本は1905年から1945年まで、サハリンの北緯50度以南の南樺太を日本の領土として国境線を設けた。
私たちはボーダーツーリズム in サハリンで北緯50度の旧国境線を体感する。
林蔵、チェーホフ、賢治ゆかりの地を辿ってサハリン東海岸を北上
7月13日、午前9時小雨の中、ユジノサハリンスク市のホテルを出発したバスは、
キンポウゲが群落する鈴谷平原を北上。1890年にサハリンを訪ねた文豪チェーホフもこの同じ道を馬車で北上している。
バスは樺太庁の農事試験場があったノボアレクサンドロフスク(旧小沼)、旧日本軍の飛行場があったソーコル(旧大谷)
を通過してドリンスク駅(旧落合駅)に着いた。
ドリンスクは、日本時代の落合で小さな寒村であった。1911年に栄浜まで鉄道が開通し、落合駅が開設。
1917年に日本化学紙料が製紙工場(のち王子製紙落合工場)を建設して開業したことで急速に発展した
私たちは日本時代の駅ホームが一部残るドリンスク駅で休憩。
王子製紙落合工場跡を道路から眺めてバスに乗り北上を続けた。
王子製紙落合工場跡にて |
栄浜駅跡にて |
バスはスタロドブスコエを出発、賢治が「銀河鉄道の夜」をイメージしたのではと言われている白鳥湖で一時停止。 車窓から白鳥湖を眺めてさらに北上した。
バスは、オホーツク海を右に見て海岸沿いの道路を走る。 1808年間宮林蔵はこの海岸を樺太アイヌの小舟に乗って海岸沿いに北上している。 私たちは林蔵と同じ景色を楽しんでいる。 200年前と違うのは道路が走っていることぐらいであろう。
東白浦神社跡に残る鳥居 |
間もなくヴズモーリエ(旧白浦)に着いた。ヴズモーリエの海岸に近い山の中腹に神社の鳥居が残っている。
東白浦神社跡に残された鳥居だ。白浦は漁業で栄えた所だ。
地元の漁師や有力者が豊漁と安全を祈願して建立したに違いない。
ヴズモーリエからボストーチナエ(旧元泊)までは峠越えになる。
ヴズモーリエ駅はサハリン鉄道の東海岸と西海岸を結ぶ拠点で、駅前通りにはカニ売りの露天が並んでいる。
売られているカニはほとんどがタラバガニで、小さなものは500ルーブル、2kgほどの大物で1500ルーブル。
ヴズモーリエ駅の露天でタラバガニに舌鼓 |
誰かがカニを今すぐに食べたいので足を1本売って欲しいとカニ売りのお姉さんと交渉、1本は売らないとの返事。
そこで食べたい人を募って各々100ルーブルを出してタラバガニの足を1本づつ購入することにした。
カニ売りのお姉さんは少し戸惑っていたが、納得してカニ足の1本毎にナイフを入れ販売。私も1本購入した。これがとても美味しかった。
足が全部売れて胴体だけが残ったカニ、カニ売りのお姉さんは胴体をさばいて私たちにサービス。
すっかりタラバガニのとりこになった私たちは、帰り道にまた購入しようということになった。
バスは峠を越えて再びオホーツク海に出た。
鉛色の空が重く垂れさがっている。
ユジノサハリンスクのホテルを出発してから間もなく4時間、腹の虫が騒ぎ始めた頃、マカロフ(旧知取)に着いた。
マカロフのカフェ「リュークス」で昼食。
ロシア伝統の飲み物カンポットで喉を潤して、ボルシチなどロシア料理を堪能した。
マカロフのカフェ「リュークス」で昼食 |
私たちは昼食を済ませた後、石段を登り、かつての知取神社跡を訪ねた。そこには本殿の基礎、灯篭の台座などが残されていた。
マカロフの知取神社跡に残る石段 |
マカロフには、1943年11月24日、樺太公立第一国民学校の火災で殉難した23名の子供たちの慰霊碑が立っている。 今は異国となった地で眠る同胞の子供たちに祈りを捧げ、マカロフを後にした。
生まれ故郷に立つ横綱大鵬像
午後4時30分、ポロナイスク(旧敷香)に到着。先ずはポロナイスクの博物館を見学する。
管内には北方少数民族の伝統文化が樺太アイヌ、ニブフ、ウイルタ、エベンキ、ナナイと民族ごとにコーナーを設けて見やすく展示されている。
民族文化に興味がある方は必見の場所である。
ポロナイスクの生まれ故郷に立つ大鵬像 |
ポロナイスク市内には不世出の大横綱大鵬の像が立っている。
博物館を出た私たちは、大鵬像を訪ねることにした。
像は日本とロシアの関係者によって2014年8月15日、ゆかりの地に建立された。
大鵬(納谷幸喜)は、ウクライナ人の父と日本人の母の三男として1940年5月にこの地で生まれた。
戦後、母とともに引揚船小笠原丸で大泊港から小樽港に向かったが、母の体調不良により稚内港で途中下船した。
稚内を出港した小笠原丸は留萌沖で魚雷攻撃を受けて沈没。多くの日本人が犠牲となった(三船殉難事件)。
数奇な運命を辿った大鵬は不世出の大横綱となった。今、父の実家があった同じ場所に立つ大鵬像は、サハリンのロシア人
にも愛されている。
先住民族戦没者慰霊碑が建つオタスの杜へ
7月14日午前9時30分、ポロナイスクのホテル・セイビエルを出発した私たちは、サハリンの大河ポロナイ川の渡し船に乗った。サチと呼ばれている先住民族が数多く暮らす場所を訪ねるためだ。
サチの奥には日本時代にオタスの杜と呼んだ土人部落があった。
サハリンには、日本人やロシア人が進出する以前から住んでいたニブフやウイルタなどの先住民族の人たちが多数暮らしている。
日本が統治した時代、樺太庁はオタスの杜に先住民族を半ば強制的に移住させて、日本語教育を行った。
彼らは生活のため、自分たちの言葉のほか、ロシア語、日本語も話す必要性があった。
第二次世界大戦が始まり、ソ連が中立条約を無視して北緯50度旧国境付近が緊張状態になると日ソ双方とも諜報活動が活発になった。現地の旧日本軍は、ロシア語が理解できて地形に詳しい先住民族の若者を徴用したのであった。
諜報員として活動した彼らの多くは戦争犠牲者となった。
今、サチ(オタスの杜)には、戦争の犠牲となった先住民族を慰霊する碑が静かに立っている。
北緯50度旧国境を訪ねる
私たちは、ポロナイスクで巨大な廃墟となっている王子製紙敷香工場跡を見てからサハリンの中央部を北上。
レオニードボ(旧上敷香)で旧日本軍の師団跡、朝鮮人虐殺慰霊碑を訪ねてスミルヌイフ(旧気屯)で昼食をとった。
雨が降って来た。昼食後はさらに北上、ポベジノ(古屯)の町外れに樺太・千島戦没者慰霊碑がある。
今だ数多くの兵士が眠るこの地で、私たちは献花をして冥福を祈った。
ツアーを代表して敷香生まれの音さんが献花 |
バスはさらに北上して、まもなく北緯50度線に到着した。
道路沿いにはソ連軍戦勝記念碑が誇らしく建っている。
その脇にある草が繁茂した細い荒道を100メートルほど進むと、旧日本の国境を標す石が置かれていたコンクリート製の台座がある。
1905年から45年まで北緯50度以南のサハリンは日本の領土であった。
サハリンの北緯50度線約130キロメートルを国境と定め、天測点である4カ所に国境を標す石を設置した。
この国境石は東から天1号、天2号、天3号、天4号と呼ばれ、南面に菊の御紋、北面はロシア皇帝の紋章である双頭の鷲が彫られていた。
実物はサハリン州郷土博物館(天1号)と根室市博物館(天2号)に展示されている。
今、私たちが訪ねた国境石の台座は天3号のものである。
1905年ポーツマス条約により北緯50度以南は日本の領土となったが、条約の中にサハリンを非武装とする旨の条項があったため、
国境警備は軍隊ではなく、警察が行っていた。
このため、緩い国境で、昭和の初め頃までは国境観光が盛んで、団体ツアーも企画されるほどであった。
1925年8月の鉄道省が主催した樺太観光団には北原白秋も参加して国境観光を楽しんでいて、
その時の旅行記「フレップ・トリップ」を著わしている。
しかし、1945年8月9日未明、ソ連軍は北緯50度線を越えて南下、対峙していた日本軍と戦闘状態になり、多くの犠牲者を出すことになった。
国境、いわゆるボーダーと呼ばれる場所は、時には面白く、楽しく、時には苦しく、悲しい、時代とともに移り行く場所なのかもしれない。
かつての北緯50度線旧国境線を歩く | 北緯50度線旧国境石天3号の台座 |
北緯50度旧国境線に残されたトーチカ
旧国境石台座を訪ねた私たちは、ポロナイスクに戻ることにした。
北緯50度旧国境線を南下して直ぐの道路沿いに、旧日本軍のトーチカが残っている。
半田沢川沿いに残るトーチカがある周辺は、1905年に南樺太を領有した日本の国境警備の最前線でした。
先にも記述したとおり非武装であったため、国境警備を担ったのは警察守備隊でした。
ここ半田沢にも半田沢警察署が置かれていて、365日24時間体制で国境警備にあたってました。
1938年1月女優岡田嘉子と演出家杉本良吉の二人は、国境警備の警察官を慰問する目的で北緯50度線旧国境線を訪ねました。
そのまま国境線を無断で越えてソ連へと逃げたのでした。
当時は新聞等で「赤い恋の逃避行」と騒がれたのでした。
旧国境線に残されたトーチカ |
その後、1939年に国境警備法が施行されて軍が警備することになり、1941年日米開戦、1943年気屯(現在のスミルヌイフ)に日本軍が歩兵125連隊を配置。
穏やかであった北緯50度線旧国境線が緊張することになったのです。
そして1945年8月11日から12日にかけて中立条約を無視してソ連軍が侵攻、国境線は激しい戦場となった。
私たちが眼前にしたコンクリート製のトーチカには無数の弾痕が残されていた。
今も兵士たちが眠るトーチカ周辺には野々花が咲いていた。
ユジノサハリンスクに戻る
月15日午前9時、ポロナイスクのホテル・セイビエルをチェックアウト。
バスは霧に包まれた道路を南下。
スタロドブスコエの海岸で琥珀拾いを楽しむ予定であったが、悪天候のため中止。
来るときにタラバガニを食べたヴズモーリエ駅のカニ売り露天に立ち寄った。
参加者の一人が1500ルーブル(3000円相当)で大きなタラバガニを購入。
希望者は300ルーブル出してドリンスクの昼食レストランで食べることにした。
ドリンスクのレストランに着くと、さっそく大きなタラバガニを解体。ところがカニの実入りが悪く、スカスカの状態。
ロシアでカニを買うときはくれぐれも吟味が必要だ。
ユジノサハリンスク市内観光と買い物
ユジノサハリンスク市内に戻った私たちは、サハリン州郷土博物館を見学。
1937年樺太庁博物館として建設された建物をそのまま使っている。
当時流行した帝冠様式(鉄筋コンクリートの洋館に和風の屋根を載せた建築様式)で、
今はサハリンを代表する建物の一つになっている。
博物館には、日本時代の貴重な展示物があって必見である。
博物館見学の後は、日本時代に樺太神社、護国神社があった境内に造られた勝利広場、栄光の広場を訪ねた。
この後は、サハリン最大のショッピングセンター「シティ・モール」で買い物を楽しでからホテルにチェックイン。
サハリン南部を訪ねる
月16日午前9時、ユジノサハリンスクのホテルを出発、コルサコフ(旧大泊)に向かう。
コルサコフはサハリンで最も古くから拓かれた町で、アイヌ語でポロアントマリ、クシュンコタンと呼ばれ、江戸時代末期には幕府の番所が置かれたいた。
私たちは日本時代に築かれた桟橋が残るコルサコフ港が一望できる高台に来た。
日本時代は神楽岡公園と呼ばれ、市民に人気のあった憩い場だ。
今、高台には古びた灯台が残るだけで、人影も無い。
戦前は稚内との間に鉄道航路があったコルサコフ港(旧大泊港) |
コルサコフの街を展望した私たちは、アニワ湾へと向かった。
アニワ湾にはサハリン北部の油田地帯からパイプラインで輸送された天然ガスを液化する大規模なプラントがある。
プリゴノドノエ(旧深海村)にあるプラントは、年間960万トンの液化ガスを生産する能力がある。
このプラントで生産された液化ガスの約半分は専用船で日本に運ばれ、発電所などで使われている。
私たちは、バスでプラント周辺を巡った。
ちょうど液化ガス運搬船が専用桟橋にいてガスの積み込み作業中であった。
この液化ガスプラントの近く、メレイの海岸近くの高台には、旧日本軍の上陸記念碑が横倒しになって残されている。
1905年7月、日露戦争の日本海戦に勝利した日本軍はこの海岸に上陸。
1か月の間にサハリン全土を占領した。その記念碑である。
旧日本軍の上陸記念碑と奥はプリゴノドノエの天然ガス液化プラント |
ツアーの見学日程を終えた私たちは、ユジノサハリンスク市内に戻って昼食とった。
昼食のレストラン「メガポリス」はバイキング方式で日本人の口にピッタリの料理が並んでいる。
この後、ユジノサハリンスク空港に行き、出国手続きを済ませ、16時20分発のオーロラ航空HZ4536便で帰路に着いた。
[2018.7.29]