JCBS:NPO 国境地域研究センター:Essays
トップページ>From the Borders>Essays>Essay027
組織概要
事業内容
From the Borders
お問い合せ




Essays

  対馬・釜山国境観光ツアー参加記    [pdf版]

地田 徹朗(名古屋外国語大学、JCBS会員)
  *画像をクリックすると拡大します

はじめに 
  2017年11月10日(金)から14日(火)まで、ビッグホリデー株式会社が企画した対馬・釜山国境観光ツアーが実施された。 対馬・釜山の国境研究の第一人者である花松泰倫(九州大学)さんが巡検ルートを監修し、NPO法人国境地域研究センター、 境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター境界研究ユニット(UBRJ)、 九州大学アジア・太平洋未来研究センターがスタディツアーの学術面とロジ面でバックアップするという豪華な体制だった。 また、本年7月に設立されたボーダーツーリズム推進協議会が推奨する国境観光ツアーでもあった。
  私個人にとって、対馬と釜山は想い出深い地である。 2012年11月に開催された国際会議Broder Regions in Transitionの第12回福岡・釜山大会(以下、BRIT XII)を、 前任校である北海道大学スラブ研究センターGCOEプログラム「境界研究の拠点形成」が主催し (スラブ研究センターは2014年4月よりスラブ・ユーラシア研究センターに改称)、 私は花松さんと共に福岡会議及び対馬を経由しての国境越えエクスカーションのロジの全体的な統括を担当した。 同年の9月に2泊3日で対馬・釜山の事前調査を行い、エクスカーションの旅程を決め、 11月の福岡会議後に対馬でエクスカーションを指揮した。対馬や釜山での想い出は決して「甘い」ものではなかったが、 今回の対馬行きはそれ以来のことであり、実に感慨深いものがあった。
  フェイスブックで岩下先生に参加記エッセイの執筆を依頼され、どのように書いたらよいものか迷った。 取りあえず、ツアーについての記憶を定着させるために、詳しい「ログ」を残しておこうと思い、 5日間の旅程を時系列で順に書いてゆくことにする。

11月10日(金) 福岡空港→対馬厳原 
  寒冷前線の通過で対馬空港への着陸が危ぶまれる中、福岡空港からANA機が無事に出発。 40分もかからずに対馬市美津島町の高台にある対馬やまねこ空港に降り立った。 ジャンボタクシーで最初の目的地である対馬市厳原町へ。 道中、ハングル文字で書かれた看板を複数見かけた。厳原は対馬の中心地で南の玄関口でもある。 初日・二日目の宿泊地である東横イン対馬厳原へ。ロビーは韓国人観光客でごったがえしていた。 日本のボーダーツーリズム「生みの親」である岩下明裕(北海道大学/九州大学)先生や 対馬の国境の現場に足繁く通っている花松さんより、 韓国からの観光客が激増しているここ数年の対馬の大きな変化については聞いていたが、 出だしからそれを実感することになった。 そもそも、東横インなんて当時はなかったのだから。
  初日のオプショナル懇親会に参加するために夜の厳原をツアー参加者と街歩き。 5年前は、飲食店の入口に「韓国人お断り」という張り紙を見て驚いたものだが (今でもそのような店舗はあるようだが)、現在はいわゆる韓国からの観光客をターゲットにしていて 店先にハングル表示のある店舗が増えていることに大きな変化を感じた。一次会は居酒屋「対玄」。 のどくろや穴子など新鮮なお刺身に舌鼓。合田由美子さん(現九大事務)、笹谷めぐみさん、 斎藤慶子さん、ジョナサン・ブルさん、GCOE & UBRJのメンバーとの再会を懐かしむ。 二次会で、5年前も訪れた「焼き鳥 山ちゃん」を再訪。5年前、ガラガラだった店内にはお客さんで一杯。 韓国からの観光客がやって来ても簡単な英語で裁いてゆく。 国境のゲートウェイの街であれば世界的にみれば至極当たり前の話ではあるが、 厳原の街全体として外国人観光客に慣れたのだとの印象をもった。

11月11日(土) 対馬厳原
ガイドの藤井敦子さん(ふれあい処つしま にて)
 ツアー二日目。午前中は、厳原町の街歩きをした。 対馬一の観光ガイド、「対馬観光ガイドの会 やんこも」の藤井敦子さんによる分かりやすい名所・旧跡の解説に聞き惚れる。 「観光情報館 ふれあい処つしま」がスタート地点。建物内部にはお土産屋などの他に対馬の歴史・ 自然についての見やすく分かりやすい展示ブースがある。5年前にはそもそもお土産屋なるものが存在せず、 もちろん「ふれあい処」のような対馬観光の拠点となり得る場所もなかった。 ここでは朝鮮通信使に関する熱のこもった解説を聞く。
  1607年から1811年まで12回に渡り李氏朝鮮から派遣された通信使。 当初は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の記憶が生々しく、日本の国情を探ることが目的で、 現代的に言うならば安全保障の観点が中心での派遣事業だったが、 4回目あたりから江戸幕府の将軍の交代と共に文化使節団として通信使を送ることが定例化した。 対馬は通信使が釜山から船出して最初に上陸した日本の地だったわけである。 対馬の領主、宗家一族は数百名にも及ぶ通信使の一行を手厚くもてなしたという。 対馬藩は江戸時代、朝鮮との交易の窓口も担っており、釜山には日本人居留地として「草梁倭館」も存在した。 そして、本年、朝鮮通信使は世界記憶遺産としてUNESCOに登録された。 対馬に事務局を置くNPO法人と釜山の文化財団が共同で申請した成果というのだから素晴らしい。 もちろん、相互の見解の擦り合わせなど、紆余曲折と苦労があったのだろうが。
  その後も、藤井さんの先導で対馬と半島との交流にまつわる厳原の史跡をめぐる。 金石城跡には、宗家本家の主である宗武志と高宗の娘である徳恵翁主との成婚を祝う記念碑(韓国側が建てたもの)を見て、 宗家の菩提寺である万松院、韓国語や韓国事情のスペシャリスト(韓語使)を育成した学校が存在した西山寺、 朝鮮通信使の対馬への上陸地点だった船着き場の石段、厳原の繁華街がある川岸の法面に描かれた朝鮮通信使のレリーフなどを徒歩で見て回った。 昨日の大雨から打って変わっての好天で、ツアーは幸先のよいスタートを切った。
 
金石城跡に集う韓国からの観光客一行
午後は、JIBSNの年に一度の全体集会と対馬セミナーが開催された。 セミナーの様子については、UBRJホームページに参加記を掲載したのでそちらを参照願いたい。 ツアーメンバーのセミナーへの参加は任意だったが、 日本のボーダーツーリズムの現在形や国境地域の社会状況について学ぶ又とない機会となったことは間違いない。 夜は、割烹「志まもと」でJIBSN対馬セミナー参加者たちと懇親会。対馬漁師料理の魚貝の「いしやき」をいただく。 その名のとおり、対馬の新鮮な魚貝類(ブリやサザエなど)を熱した石の上で焼く料理である。 北は稚内と礼文、東は標津と根室、西は対馬と五島、竹富と与那国、 日本の国境地域の自治体代表者が対馬で一同に会し交流を深めていた。 お酒も対馬の「白嶽」だけでなく、根室の「北の勝」も並んだ。 気持ちよく酔いが回っていた財部能成前対馬市長の「対馬に大学を作るぞ、 一つの大学のキャンパスではなく学術研究の拠点のようなものを」という演説が印象的だった。 JIBSNメンバーの間でも、個々の自治体の間に利害関係や活動方針についての意見の相違はもちろんあるだろう。 しかし、同時にJIBSNメンバーは常にファミリーのような雰囲気がある。 だからこそ、毎年このように多くの人が年次セミナーと懇親会に集まるのだろう。 来年は五島市で年次セミナーを開催し、 チャーター便での済州島までのボーダーツーリズムを計画しているとのことだ。実に楽しみである。
 

11月12日(日)  対馬厳原→美津島→豊玉→上県→上対馬 
 
ポサドニック号事件の舞台、芋岬灯台
朝から好天である。東横イン対馬厳原をチェックアウトし、「天領バス」の大型バスで対馬を北上。 新設の対馬病院のそばにある美津島町長板浦から渡海船「うみさちひこ」に乗船し、浅茅湾クルーズを楽しむ。 軍事目的で開削された万関瀬戸を渡す万関橋を見上げ、 明治維新前にロシア軍艦が対馬占領を目的として居座ったポサドニック号事件の舞台である芋崎の灯台、古の時代に防人 (さきもり)たちの拠点だった金田城の石塁などを巡る。 リアス式海岸である浅茅湾では海上でのクロマグロと真珠の養殖が盛んで、数多くの養殖施設や生け簀を見かけた。 まさに生活の海である。若き船長さんとベテランの藤井さんの素晴らしいガイドの共演と、 「風光明媚」ということばをほしいままにする浅茅湾の絶景を楽しみながら、ゆったりとした時間を過ごすことができた。 圧巻だったのは、海中に鳥居が聳える和多都美神社を海側から拝んだことだろう。BRIT XIIの時は陸からバスで訪れたが、 海から見る神社の景観はただただ神々しかった。
  昼食会場は、下船地である豊玉町仁位にある「あなご亭」。 対馬西岸はあなごの名産地である。東岸ではあなごではなく、韓国で食用として需要があるヌタウナギが獲れるという。 あなごフライ定食は、見たこともないほど肉厚なあなごの身をフライしにしたもの。 外はサクサク、白身はフワフワ。渡海船以外の公共交通手段では非常に行きにくい場所にあるのだが、 必ずや再訪したいと思わせる旨さだった。
海上から観た和多都美神社
 昼食後、和多都美神社を陸から訪問。 伝説によれば、海神の娘の豊玉姫(神武天皇の祖母にあたる)と山幸彦との出会いの地とのこと。 対馬随一のパワースポットでもあり、韓国からの観光客も多く訪れている様子だった。 海から見ても陸から見てもとにかく美しい神社である。次は和多都美神社から至近の烏帽子岳展望台へ。 浅茅湾を一望できる絶景スポットで、一度行ってみたかった場所である。 我々ツアー一行の後からたくさんの韓国からの観光客が展望台に昇ってきた。 人気のスポットのようだ。もちろん景色は美しいのだが、自然林と人工林のコントラストもはっきりしており、 自然利用のあり方についても考えさせられる場所でもあった。
公開されているツシマヤマネコの福馬くん

 対馬での人間社会と自然環境との関係性について言うならば、対馬の北西岸、 上県町佐護にある対馬野生生物保護センターでも考えさせられるところ多であった。 このセンターでは、対馬を象徴する野生動物であり、 国の天然記念物にも指定されているツシマヤマネコの保護を行っている場所である。 対馬の南北を縦断する国道382号線など自動車道路の改良に伴い、 野生のツシマヤマネコの交通事故が多発している。 今回、センターを訪れた時も4日前に事故が起きたばかりだった。 事故はどうやら秋口に多いらしい。野生の総個体数が100頭程度とのことであり、 交通事故で1頭でも減ることが重大な損害となる。
夕食会場の居酒屋「ひでよし」

  また、この佐護地区には対馬ではごくわずかしかない平地があり水田が分布している。 しかし、集落の中心道路沿いには明らかな空き家が目立った。 過疎化や高齢化が深刻化していることが車窓の風景からだけでも見て取れた。 いわゆる「限界集落」である。JIBSN対馬セミナーでも議論されたことだが、人口は減り続ける、 消滅する集落も出てくるということを前提にする必要があるのではないか。 「若い力」をあの手この手で誘致というだけではなく、長期的な視座でどのように街作りをしてゆくのか、 そこに国境地域に本来あるべき人の流動性や境界の透過性のようなものを生かせないのか、いろいろと考えさせられた。
  対馬の北東岸に位置する上対馬町まで移動し、宿泊先であるみうだペンションにチェックインした後、 上対馬温泉渚の湯で一風呂浴びて、夕食会場である比田勝港至近の居酒屋「ひでよし」へと移動。 朝鮮出兵を想起させる挑発的なネーミングだが、韓国からの観光客も訪れているようだった。 とにかく新鮮で美味な刺身などの料理に舌鼓を打ちつつ(根室の小林商店から「いくら」の差し入れもあった。 美味!)、隣に座ったボーダーツーリズム推進協議会の会長である伊豆芳人さんの話に耳を傾ける。 伊豆さんは、ANAセールスで夏の沖縄への家族旅行や冬の北海道へのスキーツアーなど数々のパッケージツアー商品を開発し、 定着させた謂わば「旅の仕掛け人」である。そんな彼が今はボーダーツーリズムを仕掛けようとしている。 旅行商品の開発はまずターゲットをどこに絞るのかが肝心だという。 しかも、若いほうがよい。歴女でもなんでも、 まずは若者が食いつきそうなツアーのストーリーを構築できるかボーダーツーリズムも鍵となりそうだ。
韓国展望所からの釜山の夜景
(手前ではなく、奥に薄らと見える光が釜山のもの)

  夕食の最中、ガイドの藤井さんのところに対岸の釜山の夜景が見えると連絡が入り、 バスに乗車し一団で上対馬町鰐浦の韓国展望所へと向かう。 暗闇の展望所から対岸の釜山の明かりがはっきりと見える。 北海道の羅臼町から見た国後島ほどのインパクトはないが、日本の国境地域に来たということをさらに実感した。 上対馬から釜山まで最短で49.5キロメートルしかない。 花松さん曰く、ここから釜山が見えるかどうかで、ツアー参加者の満足度も変わるのだという。 恐らくは、韓国からの観光客にとってもそうなのだろう。 何しろ、彼らにとって他国から自国を目視できる外国とはここしかないのだから。
  宿泊先のみうだペンションは韓国式の床下暖房「オンドル」を取り入れており、温度調整にコツはあるものの、 比較的薄めの毛布だけでも快適に眠ることができる。 韓国展望所から戻ると、対馬=釜山航路の発展に長いこと携わってきた、 みうだペンションのオーナーでもある比田勝亨さんをお招きして宿泊者とのプライベートな酒盛りが行われた。 ツアーに参加した根室毎日新聞の本間宏昭記者による比田勝さんへの聞き取り取材が行われ、非常に勉強になった。 竹下内閣時代の「ふるさと創生一億円」の時から上対馬町では韓国との交流について議論をされていたとのことだが、 大阪に暮らしていて対馬に戻った比田勝さんは、国際交流を行うポストの公募で採用され、 それで人生が大きく変わったという。韓国語を修め、韓国の大亜海運による対馬=釜山間の国際航路を誘致し、 同じく韓国の未来高速をそこに加え、韓国人を主なターゲットとする宿泊施設を二軒経営されている。 2011年3月の東日本大震災で韓国船のオペレーションが止まった時は、日本のJR九州高速船の参入を促した。 民間での越境交流のいわば「フォワーダー」的な存在である。酒宴の席でメモも取らなかったので記憶は曖昧なのだが、 本間さんが記事を書かれるのだろう。他にも印象的だったのは、東横イン誘致の話である。 厳原町には立派なホテルが建っているが、人口減少による労働力不足と就労条件や言語などの問題で、 ホテルがフル稼働できない状態にあるのだという。上対馬町にもホテルの建設について話が進んでいるが、 工事に着手できないのは厳原以上に厳しい労働力不足がネックになっているからだそうだ。 実は、小規模ながら対馬独特の美しい景観を殺さない、みうだペンションや近隣の花海荘のような宿泊施設のほうが 実は対馬の実情に合っているのかもしれない。

11月13日(月) 対馬上対馬→釜山 
殿崎公園にて(中央奥が古場公章さん)
 この日も好天。まずは、みうだペンションから程近い、殿崎公園へと向かう。 日露戦争時の対馬沖での日本海海戦で、大敗を喫したロシア海軍の水兵が上対馬に漂着し、 敵兵だったにもかかわらず西泊の住民は手厚くもてなした。 この美談に心を動かされた連合艦隊司令官の東郷平八郎が「恩海義僑(めぐみのうみ、ぎはたかし)」 との書をしたため、1912年、彼の親筆と共に殿崎の地に「日本海海戦記念碑」が建立された。 この記念碑の他にも、日本海海戦100周年を記念して建立された、 日本海海戦で戦死した日露の兵士(ロシア側の死者数が圧倒的に多い)の姓が刻まれた「日露慰霊の碑」、 東郷平八郎が捕虜となったバルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキーを見舞う様子が描かれた 「日露友好の碑」が殿崎には立っている。 日本海海戦記念碑の前で、西泊にお住まいの古場公章さん(対馬観光物産協会)から解説を聞く。 日本海海戦100周年、110周年のタイミングでは駐日ロシア大使も来島し、2012年11月には、 ロジェストヴェンスキー提督の子孫も含むロシア側の家族会のメンバー4名が殿崎の地を訪問。 本年3月には、東郷平八郎のお孫さんと共に古場さん自身が日本側を代表してサンクトペテルブルグを訪問し、 家族会の代表と再会し、クロンシュタット島にある「対馬の塔」を訪れたという。 本年9月には駐日ロシア公使夫妻が殿崎を訪れ、日本海海戦の犠牲者の慰霊祭が開かれた。 昨年12月のプーチン大統領の対馬来島は叶わなかったが、殿崎の地が日露友好を象徴する場所であり、 実際に西泊の方が日露間の草の根交流を深めている様子に、強い感銘を受けた。 ロシアにかかわっている私としても、できれば学生を引き連れてこの殿崎の地を再訪したいと思った。
  その後、韓国展望所を再訪してうっすらと白く見える釜山の街を目視した後、 豊砲台跡へ。第二次世界大戦の時も実際に使われることはなかったというが、 対馬がかつては軍事面でも重要な島だったことを改めて思い知らされた。 このような砲台跡が対馬各地に分布している。 2012年9月に訪れた時は、朽ち果てた廃墟といった趣きだったが、 昨今、床面が歩きやすいように整備されていた。
 
真新しい比田勝港国際ターミナルの建物
そして、JR九州高速船ビートル号で釜山へと旅立つために比田勝港国際ターミナルへと向かう。 ここで、ガイドの藤井さんとはお別れ。対馬と韓国との関係・交流を軸に据え、 さながら講談師のような情感あふれる語り口は本当に素晴らしかった。 藤井さんのガイドを聞く人は必ずや虜になること請け合いである。
  CIQの通過までに時間があるため、比田勝港の周辺を散策。 国際ターミナルから歩いて2分程度の免税店Gatewayを特別に見学させていただく。 上対馬町のスーパータケスエが、 日本各地で免税店の運営を展開している韓国系企業の株式会社永山と共に運営している、 韓国からの観光客をターゲットとした免税店である。 2012年に対馬を訪れた時、比田勝にこんなお店はなかったし、 「免税店」と名のつくものは厳原町にあった建物の内部が外からは全く見えない謎の店舗だけだった。 ところが、今や厳原にも上対馬にも免税店や土産物店が数多くあるようだ。 店内を見てとにかく驚いた。永山がもつ商品の調達能力のおかげなのだろうが、 とにかく空港並み(あるいはそれ以上)の品揃え。資生堂の化粧品やSonyなどの電化製品など当たり前。 圧巻だったのは菓子のコーナーである。北海道の白い恋人やら、東京バナナやら。 国境の地に日本全国からの痒いところに手が届く品揃え。 大量の人の移動があるからこそ成立し得るビジネスモデルだと思った。 話によると、たいへん儲かっているらしい。
比田勝港に停船中のビートル号
 比田勝港国際ターミナルは2015年12月に建設された真新しい大きな建物。 今なお現存する平屋建ての小屋でCIQをやっていた時とは隔世の感すらある。 我々が乗船するビートル号は12時ちょうどの出港。20分前くらいから出国手続きが始まった。 2012年のBRIT XIIの際も荷物のX線検査はなかったが、現在も荷物検査が行われることなく (どうやら、博多港でも稚内港でも行われてないらしい)、 パスポートに出国印が押されるだけで乗船することができた。
  ビートル号は定時に出発。月曜日ということもあってか、空席が目立った。 我々ツアー一行を除くとほぼ韓国からの観光客で占められている。 船内では2階席左の窓側に座る(指定席)。沖に出ても「ベタ凪」である。 船はまったく揺れずに1時間少々で釜山港国際ターミナルに到着した。 隣に座った朝日新聞の刀祢館正明記者は稚内・サハリンの「北緯五十度線ツアー」に参加した際、 酔い止めを飲まずに乗船したら余りにひどい揺れで横になるしかなかったとの思い出を語ってくれた。 それ以外にもいろいろなお話を伺い、ツアーならではの異業種間交流を楽しんだ。
  釜山港国際ターミナルも実は2015年8月に釜山港の南側から釜山鉄道駅にほど近い北側に移ってきた新しい建物である。 2012年に訪れた旧国際ターミナルも十分に立派だったが、さらに大きな建物になった。 対馬や博多への観光客が増え、航路需要が増したからだろう。 釜山港ではパスポートコントロールを通過後に手荷物のX線検査がある。 いずれも何の問題もなくスムーズに通過。大型バスに乗り込む。 韓国人ガイドの文さんの案内の下で釜山でのツアーが進行してゆく。
  釜山でまず訪れたのは、五六島スカイウォークとその近くにある大日本帝国統治下に建造された砲台の トンネル跡である。トンネルは崩落の危険もあり、閉鎖されているが、 今後、歴史遺構として修復・公開する可能性もあるという。 戦後は、ハンセン病患者が収容される地域となったとのことである。 彼らは家具製造で生計を立てていたとのこと。 今はベイサイドの高級マンションが建ち並ぶ地域になっている。 スカイウォークへは行かず、遠くにうっすらと対馬の影を見て (釜山から対馬を目視するとしたら天候に恵まれた昼間しかチャンスがない)、 次なる目的地、在釜山日本国総領事館前の慰安婦像へと向かった。
 
日本領事館前の「慰安婦像」
釜山広域市における慰安婦像は、日本領事館の目の前の歩道に置かれている。 簡素な椅子に座している「慰安婦」の銅像のとなりに誰も座っていない銅製の椅子が置かれており、 記念撮影ができるようになっている。韓国各地で同じような銅像が作られた。 昨年末、この銅像が設置されたことで在韓国日本国大使が一時帰国するなど 政治的に物議を醸したものであるが、実際にこの銅像を目の当たりにして、 日韓の間に横たわる「集団的記憶」の問題について考えさせられた。
  釜山広域市における慰安婦像は、日本領事館の目の前の歩道に置かれている。 簡素な椅子に座している「慰安婦」の銅像のとなりに誰も座っていない銅製の椅子が置かれており、 記念撮影ができるようになっている。韓国各地で同じような銅像が作られた。昨年末、この銅像が設置されたことで在韓国日本国大使が一時帰国するなど政治的に物議を醸したものであるが、実際にこの銅像を目の当たりにして、 日韓の間に横たわる「集団的記憶」の問題について考えさせられた。
 
国際市場
 次は国際市場へと向かう。朝鮮戦争当時のいわば「ヤミ市」が市場として定着したものだが、 今日では衣料品や生活物資の商店や飲食店がひしめく巨大市場へと発展し、 「国際市場」という名称が定着している。40分程度の自由時間となったので、 屋台でトッポギやおでんを食したり、韓国製の帽子を買ったり。 シニア向けの衣料品や古着だけでなく、若者をターゲットとしたオシャレな衣料品を扱う店舗、 そしてツアー客である我々にとって重要なお土産屋さんも数多く立ち並んでおり、とにかく飽きない。 時間はあっという間に過ぎ去ってゆき、市場内の焼き肉屋で夕食を食べた(店名は忘れた)。 日本人好みの味付けだった。
  夕食後は、バスで本日の宿泊地となる東横イン釜山駅2へと移動し、チェックイン。 BRIT XIIの時にも利用し(チェックインが大行列となり、参加者に迷惑をかけた)想い出深いホテルである。 バスの中で岩下先生から頼まれていたこともあり(岩下先生とは日本領事館前でお別れ)、 花松さんと夜のオプショナル・ツアーを組織。釜山までのツアー参加者のほとんどが加わって、 木村崇先生(京都大学名誉教授)を先頭に釜山駅前にある、 そして、釜山港からも程近い、マルチナショナルな繁華街「チャイナタウン」と 「テキサスストリート」を散策。元は駐在米軍の兵士を相手にする歓楽街だったという。 中華料理屋に雑じってロシア・レストランやらバーやら怪しいお店やら。 ウズベク料理屋(「サマルカンドСамарканд」「ウチクドゥクУчкудук」あともう一軒)もあった。 最後の名前を忘れたウズベク料理屋の店主はサハリン出身のコリアンで、 日本統治下で朝鮮半島からサハリンに移り住んだ末裔だという。 ウズベキスタン出身者の多くは釜山郊外の建設現場で働いているという。 異国の地にあって彼らが集うfoodscapeなのだろう。 路上でビールを飲む陽気なほろ酔いのロシア人水夫にも話しかけてみた。 日本の車やバイクは素晴らしいと「あるある」なことを言っていた。
 
テキサスストリート、ロシア語の看板が多数
路上に出ていた二件のロシア・バーの女店主はそれぞれウラジオストクとハバロフスク出身だという。 さすがに危険な臭いしかしない「怪しすぎる」ロシア人と思われる白人女性には話しかけられなかった。 建物の二階以上に上がっていくお店は「いかにも」という風情。付近にはモーテルもたくさんある。 ただし、「バイカルBaikal」と名のつくキャバレーのような店から顔を出していたのは東南アジア系だった。 釜山はアジアの一大ロジスティック拠点である。街では多くのロシア人を見かける。 かつての「テキサスストリート」を知る人にとっては、これでも随分と安全になったのだという。 要するに、ここはロシア人や中国人の船乗りと米軍兵士を主な相手とする繁華街兼風俗店街なわけである (韓国の方らしき人も見かけたが)。外国の海の男たちを相手にするとても「マッチョ」な空間だ。 その存在の是非の価値判断は横に置いておくが、多民族・多国籍者が交わる国境の街、 釜山の「裏の顔」がここに凝縮されている。 私はここではツアー参加者にロシア語で書かれていることを説明し、通訳的なこともやった。 国境地域の生の姿を観るという意味では大いに学びある、でも、少しスリリングな街歩きだった。
 
プロフとバルチカと私@サマルカンド
ナイトエクスカーション参加者をホテルまで無事に送り届けると、 花松君と「どっかで飲み直すか、炭水化物だな」ということになり、 折角なのでチャイナタウンに戻り、カフェ「サマルカンド」に入る。 注文したのは、プロフとラグマンとバルチカの7番。 プロフは米が違うのか若干ベチャッとしていたが、許容範囲である。 ラグマンはトマトベースのスープにソフトめんという中央アジアの食堂の味。 手延べ麺で汁なしのウイグル・ドゥンガン風ではない。韓国・釜山でウズベク料理。 これはとても新鮮な体験だった。そこで出会ったウズベク人はタシケントとアンディジャン出身。 韓国ではカフェで数ヶ月単位の契約労働を繰り返して稼いでいるが儲からないという。 日本に留学している年下の親族は、生活費が高いとヒーヒー言いながらも 毎月親に1,000ドルくらい送金していると羨ましがっていた。 日本で働くのを手伝ってくれと言われ、フェイスブック・アカウントの交換を求められたが、 これは申し訳ないけれども断った。 でも、この界隈はまた再訪したいと思った。 国境地域としての釜山の「変化」を知るには打ってつけの場所だからである。

11月14日(火)  釜山→博多港 
甘山洞文化村のカラフルな街並み
 いよいよツアー最終日である。ものすごく混雑する東横インでの朝食は取らずにチェックアウトしてバスに乗り込む。 この日の最初の目的地は甘川洞文化村。 元は朝鮮戦争の際、北朝鮮が攻勢だった時に、逃げてきた避難民が住み着いたところだとのこと。 急峻な斜面にギッシリとカラフルな家々が立ち並び、迷路のような路地が張り巡らされている。 ここがモダンアートの聖地として整備されたのは2009年のこと。 今では、アートマップが無料で配布され、スタンプラリーをしながら、多種多様なアート作品を楽しむことができる。 自由時間はごくわずかだったので、路地歩きもアート鑑賞も少ししかできなかったが、この街区の雰囲気はとても好きである。 頭によぎったのは、「どこかに似ている?どこだろうか?・・・ あ、大分県津久見市の保戸島だ。」遊覧船から観ただけで上陸はしていないのだが、 崖に立ち並ぶ無数の建物という景観はそっくりだ。ちなみに、保戸島の銘菓は「かずまき」である。 対馬の「かすまき」とほぼ同じ。餡子をカステラで巻いた菓子である。
 
朝鮮通信使歴史観にて
次なる目的地は、朝鮮通信使歴史館。UNESCO世界記憶遺産に登録された朝鮮通信使についての韓国側の展示・学習施設である。 朝鮮通信使の史実について詳しく知ることのできるデジタル展示、朝鮮通信使についての3Dアニメ映像、 朝鮮通信使の移動経路について描かれた日本の立体模型、 朝鮮通信使が船出するときの安全祈願を行った永嘉台の屋外での復元展示など、展示内容は極めて充実していた。 厳原町での「ふれあい処つしま」での展示とこの朝鮮通信使歴史館での展示を合わせてみることで、 朝鮮通信使の歴史に関する理解を格段に深めることができる。国境観光ならではのコンテンツがこの両者にはある。
  最後の目的地は、南浦洞のチャガルチ市場。韓国の築地市場のような場所と言ってもよいのではなかろうか。 屋外の魚売り屋台を歩いて見て回ったが、近海で取れた魚介類ばかりのような感じがした。 エビ、サザエ、イカ、巨大なハマグリ、鯛、太刀魚、ヌタウナギに鯨肉・・・多種多様かつものすごい量の海産物が売られている。 夕方には大安売りがあるのだろうか? 生活の海がもたらす恵みという、港町釜山の別の一面をここでは観ることができる。
チャガルチ市場
 
  釜山駅近くで海鮮鍋を堪能し、再び釜山港国際ターミナルへ。 ここはCIQの外にも中にもお土産店が充実している。CIQの中には空港と同じレベルの免税店がある。 朝鮮人参の蜂蜜漬けという自分へのお土産を買い、ビートル船内へ。 そういえば、出国前の荷物のX線検査は日本側と違いきちんとあった。 往路と同じくベタ凪で、今度は3時間の博多港までの快適な船旅。 博多港の税関では結構入念に荷物を調べられて意外だった。 同行のイギリス人の、ジョナサン・ブルさんはもっと入念に荷物を調べられたらしい・・・ 韓国の方以外の外国人の国境通過は珍しいのだろう。ここでツアーメンバーみんなとお別れ。 中洲川端までタクシー、それから地下鉄経由で中部行きの飛行機に乗り込み、家路についたのであった。

おわりに 
  最後に・・・私の親友でもある九大の花松さんには道中本当にいろいろなことを教えていただきました。 花松君よ、BRIT XIIから5年、あなたは本当に対馬のプロ、ボーダーツーリズムのプロになったのだなと。 道中アテンドをしていただいたビッグホリデーの川上朋来さん、常野愛子さん、 ソウルから加わった根岸文男さん、プロフェッショナルなロジ管理で「やっぱりプロは違う」とお仕事ぶりに感服しました。 伊豆芳人さんも含め旅行業界の方との異業種間交流も本当に楽しかったです。 古川浩司先生(中京大学/JIBSN事業部会長代行)はじめ、 ツアーでご一緒させていただいたその他の方々についても本当にお世話になりました。 楽しい思い出しかありません。 今回のツアーに参加するにあたり、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターから旅費の支援をいただきました。 岩下明裕先生、わがままを聞き入れていただき感謝申し上げます。 複雑な事務手続きをしていただいた事務の中嶋奏子さんにも感謝です。
  最後に、ボーダーツーリズムの今後について私見を。 BRIT XIIから5年。国境の島、対馬は大きな変貌を遂げ、また、さらなる変貌が予想されています。 釜山も変わってないようで変わっている。釜山港国際ターミナルの移設などいい例です。 政治地理学の世界では、国境や国境地域とは「社会的プロセス」だと言われています。 つまり、複数の地理的スケール(グローバル、ナショナル、リージョナル、ローカル、そしてボディ) のその時々の政治的・経済的・社会的・文化的事情の変化によって国境や国境地域は常に変貌のプロセスにあるわけです。 古くは、第二次世界大戦の終戦と脱植民地化、朝鮮戦争、冷戦、そして国家としてのソ連の消滅、 最近だと、韓国人観光客の増加、朝鮮通信使のUNESCO世界記憶遺産への登録など様々なスケールでの様々な事情の変化が 如実に現出するのが国境地域。 だから、ボーダーツーリズムは一度経験しただけではダメなのです。 常に変貌し続ける「プロセス」を楽しむ、そのための国境地域ならではのストーリーを開拓し、創ってゆく、 ボーダーの変貌と共に創り替えてゆく。そこに「持続可能な」ボーダーツーリズム発展の鍵があるのではないのかと思いました。 リピートしましょう。そして、来年、五島市を訪れるのを楽しみにしています。

[2017.12.15]


■Back Number

▲このページのトップへ▲


特定非営利活動法人 国境地域研究センター(JCBS)
[事務局]460-0013 名古屋市中区上前津2丁目3番2号 第一木村ビル302号
e-mail: info@borderlands.or.jp    tel. 050-3736-6929    fax. 052-308-6929