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対馬釜山・国境観光ツアー5日間参加記 [pdf版]
斎藤 慶子(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター学術研究員)
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私の世代は、日本が17世紀半ばから19世紀半ばにかけて「鎖国」していた、と学校で教えられていた。
最近は「鎖国」という概念自体が見直されているそうだが、
その「鎖国」時代にも外国との交流を行っていた4つの窓口のひとつが、対馬だった。
通商や戦争、国際結婚、文化交流などなど、対馬には、朝鮮との交流の歴史が刻まれたスポットが至る所に存在する。
ツアー中も、大勢の韓国人観光客たちの姿を見かけ(年間30万人の韓国人旅行客が訪れるそうだ)、
現在にまで交流史が続いていることを再確認した。
各々の観光スポットについては、今の時代、簡単な説明ならばなんでもインターネットに出ている。
というわけで、以下は対馬・釜山への旅の雑感である。
11月10日
福岡からプロペラ機に乗って、対馬空港に到着(愛称は対馬やまねこ空港)。
荷物引き取りカウンターでヤマネコとカワウソのぬいぐるみたちが出迎えてくれて感激する。
翌日の境界地域研究ネットワークJAPAN(JIBSN)対馬セミナーでお世話になる対馬市役所の方々にご挨拶に向かう。
(セミナーのご報告はこちらにいただきました)
夕刻の生暖かい風に、南国へ来たことを感じる。
11月11日
厳原町散策(対馬の南)。 この日は一転、冷たい風が吹いて、軽装で出て来たことを悔やむ。 しかし目に染みるような青空で、山の稜線もくっきりと、散歩に最適な天候だった。 対馬観光ガイドの会やんこもの「篤姫」こと藤井敦子さんに連れられて、 まず、観光情報館ふれあい処つしまを訪れる。神話伝承の時代から近代までの対馬の歴史を学ぶことができる。 さほど大きくはないワンフロアの展示スペースだったが、情報量が多く、工夫された充実の内容。 特に朝鮮通信使が大きく取り扱われているように感じた。このツアーの直前に、 「朝鮮通信使に関する資料」がユネスコの記憶遺産に登録されたとのことで(2017年10月31日登録)、 これから訪問者のますますの増加が期待されるだろう。 写真は、しっかりと主要情報を伝える篤姫のきっちりした語り口に、メモを走らせる参加者の皆さん。 しかしこのときはまだ、篤姫が力を抑えていたのだとは知る由もなく。。。
この日は午後にセミナーを控えており、午前中のうちに金石城跡を抜けて対馬藩主宗家墓所である万松院を訪れ、 そのほか、朝鮮からの漂流民を送還するまでの一時的な宿泊施設だった漂民屋跡、朝鮮通信使も宿泊していた西山禅寺などを巡った。
西山寺 ヤシの木?が南国風 |
自分が外国語の習得に苦労していることもあり、興味をひかれたもののひとつが、西山寺の向かい側あたりにあったという、 通詞を養成する研修所の話である。
ご当地キャラ たまひめ |
もともと対馬は朝鮮との通商で栄えていた町だったので、朝鮮語を話す商人および商人出身の通詞はいたが、
朝鮮から来るエリートの日本語話者たちと対等にわたりあえるような、
教養のある朝鮮語通詞を育てるのが目的で18世紀初頭に開所された。数年の研修を成績優秀に終えた者は、留学させてもらえた。
そんなにも昔に、理想的にも思える語学習得コースが実施されていたらしいことに、たいへん驚いた。
今でも、長崎県立対馬高等学校の国際交流コースでは韓国語を専門的に学ぶことができ、
卒業生の中には韓国の大学に留学する人もいるそうだ。
このような形で韓国との懸け橋となる人材が育てられ続けていることに、歴史の重みを感じた。
11月12日
この日は島の南の厳原港から、北の比田勝港までの道のりをバスで行きながら、各地で対馬の自然を堪能した。 上島と下島の間にある浅茅湾のクルーズでは、船頭さんのたいへんにこなれた解説に、 約2時間半(記憶に間違いがなければ。。。)の航程もあっという間だった。
(下船後、解説のうまさから想像していたよりも船頭さんがよっぽどお若いことが分かり、一同驚愕)
リアス式海岸というのだそうで、海面からどーんと高くそびえる群島が船の両側に果てしなく続き、巨大な岸壁だったり、
金田城城壁の痕跡がちらほら見える森だったり、ほかではなかなかみられないような景色に感心しきり。(
ちなみに、来年のボーダーツーリズムでも、リアス式海岸を持つ五島を訪れるが、五島は対馬ほど山がちではないそうで、
違いを見るのがおもしろそうである)
お昼にいただいたあなごカツ定食に感激。
見たことないほど肉厚で、骨もまったく気にならずのふわっふわの身。
ちなみに、対馬でいただいたお食事はどこもたいへんにおいしく、
つい食べ過ぎてウェイトと言う名のお土産を持ち帰ることになった。
クルージングの途中、和多都美神社の5つの 鳥居が重なって見えるポイント。 海から見るとよりご利益があるとか!? |
和多都美神社で山幸彦と海幸彦の神話を聞き、烏帽子岳からリアス式海岸を眺望した。 篤姫による神話の解説は情感こもって、まるで演劇を見ているようだった。 また、このツアー中、感服させられたことのひとつに、 参加者の大学の先生方や記者の方々の健脚+尽きることのない旺盛な好奇心が挙げられる。 ガイドの方への矢継ぎ早の質問はもちろん、烏帽子岳に登頂するために上る百数十段を超える階段もなんのその。 このあと訪れた釜山でもガイドの方に「若い人遅く、お年寄りの方が元気」とやられてしまった。
ネコ好きにはたまらないのが野生生物保護センターにおけるヤマネコとの対面だ。
ヤマネコの鳴き声(気持ちによってヴァリエーションがある)の録音を聞くコーナーあり、
生活環境を再現したコーナーあり、生態について知るためのクイズ・コーナーありと、
もりだくさんな内容の展示室の奥に、ヤマネコの福馬くんが保護されている。
ガラスの向こうの福馬くんは、ひそやかに興奮している我々(彼を驚かさないように静粛が求められる)
を時折睥睨してきて、こちらが見るというより、見られている感覚が強かった。
「シャッター・チャンスを作ってやっているんだ」と言わんばかりに、私には見えた
(福馬くん、ありがとうございました)。
夜ご飯のあとには、篤姫とバス運転手の方のご厚意により、韓国展望所(上対馬)から夜景を見ることができた。
遠くの方にうっすらと映える釜山の街の細い光に見入った。
上空には星々が煌めいて、韓国の人々と同じ星を見ているという当たり前のことが、ここ対馬ではしんみりと実感できた。
11月13日
韓国展望所 |
快晴。日本海海戦(対馬沖海戦)の折、 対馬に流れ着いたロシア人たちに対馬島民が宿泊の場を提供したことを記念して建立された日露友好の碑を訪れたのち、 昨晩と同じ韓国展望所で、1703年に日本到着目前にして突然の天候の変化に大破した船で非業の死を遂げた朝鮮国訳官使殉難之碑に参り、 さらに、造成した昭和9年当時世界最大級の巨砲を擁していたという豊砲台跡を拝見する。 移動のバスの中では、篤姫が「あっちゃんバージョン対馬物語」を重厚な歴史を感じさせる情熱的な語り口で披露してくださった。 篤姫の本領発揮で、一人で大河ドラマを演じているような迫力があった。 対馬愛にあふれるご案内のおかげで、旅が10倍にも20倍にも充実したと思う。 篤姫様、お世話になりましてありがとうございました。
砲台が入っていたところ |
お昼には比田勝港からJR九州高速船ビートルで釜山に移動。この日も抜けるような青空で、波も穏やか。 揺れるもことなくたいへん快適な船旅だった。1時間ちょっとという超短時間で釜山港に到着。海からずっと入っていくと、 どこまでも続くかのような巨大な港に、韓国の造船業の繁栄もなるほどと思わされた。
まず、五六島砲台跡が地下にあるという場所を訪れた (五六島の中ではなく、五六島に隣接する内地にある。安全確保のため地下には降りられない)。 かつての日本統治時代に、対馬の砲台と対になるように設置された。
展望台からの釜山港の眺め |
あちら側からとこちら側からで対馬海峡を守っていたのである。 ここにおいて、「動く国境」を実感した。今そこは鉄製の蓋と芝生に覆われ、 周りはきれいに整備された花園となっている。 その先には、おそらくマンションでなく億ションだろうと思われる超高層建築が林立する地区が広がる。 この同じ場所で、じつはハンセン病患者が隔離されて集団生活を送っていた時代もあったそうだ。 数奇な運命を辿ってきたこの地も、今は断崖絶壁の先に突きだしたガラスの回廊「五六島スカイウォーク」を備えて、 観光客の足の絶えない人気スポットになっている。
展望台の中で撮影した写真 |
このあと日本総領事館前に従軍慰安婦像を見に行き(韓国のガイドさんが、 「ご覧になりたいというふうに伺ったので」と繰り返し言っていたのが印象的だった)、 龍頭山公園に移動した。ここは、17~19世紀に日本人居留地「草梁倭館」があった場所で、 今は展望台を中心に据えた公園になっている。上がって下りるだけの展望台かと思いきや、 エントランス・ホールに始まって、エレベーターの中にも、途中の廊下などでもメディア・ アートを駆使した仕掛けが随所に待っていて、 いい意味でこちらの予想を裏切られた。色鮮やかで派手なデザイン感覚のことを言ったら、 九州大学の花松泰倫先生が、「韓国らしい」とひとこと。なるほど、そうなんだと思った。
あまりたくさん写真を撮れる雰囲気では なかった。右手にキリル文字の看板 |
夕方は国際市場でお買い物、晩御飯にデジカルビをいただいた。 夜は希望者だけがオプション散策メニューに出かけた。 昔はアメリカ兵相手の飲み屋街だったところが今はロシア人および中央アジア人たちが多く店を出している、 釜山のロシア、その名もテキサス・ストリートを見学した。 あやしげなお姉さんが店頭で煙草をくゆらせていたり、店内の様子が分からない店構えだったり。 しかし中には食堂的なお店もあって、名古屋外国語大学の地田徹朗先生が流暢なロシア語で店員さんにさかんに話しかけ、 ツアー参加者の皆さんもわからないながら大いに盛り上がっていた。
11月14日この日も晴れ。朝から、「韓国のマチュピチュ」と巷で言われているらしい甘川文化村に行く。 山の裾野にへばりつくように家屋が密集しているこの街は、朝鮮戦争の避難民たちがその礎を築いたのだそうだ。 2009年には行政が資金を投入して町おこし「夢見る釜山のマチュピチュ」プロジェクトが実施され、 芸術家たちを巻き込んで、今のカラフルな、そして遊び心のある街並みに変身した。 お土産のお買い物にも最適だが、歩くだけでも楽しい。
次に、朝鮮通信使歴史館を訪問した。歴史館の方が日本語で解説してくださった。 朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団のことで、 同行していた文化人(芸能、書画、文芸などに秀でた人々)が日本の人々の間でたいへんな人気を集めたという。 歴史館は2階建ての建物で、1階にはミニ・シアターが備え付けられている。
朝鮮通信使歴史館入口 |
2階には、日本への航海の無事を祈る「海神祭」を行っていた永嘉台が復元されていて、おおがかりな建造物が立っている。 展示は、アニメーションの放映や、タッチパネルが多用され、若い人たちの興味を意識した構成になっていた。
このような曲乗りも披露 されたそうだ |
ところで、「朝鮮通信使に関する資料」のユネスコ記憶遺産登録は、対馬市内に事務局を置く NPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」(縁地連)と、朝鮮通信使歴史館内に事務局を置く釜山文化財団の民間団体二者による 日韓共同申請だったそうだ。
永嘉台(復元) |
歴史館の方がおっしゃるには、申請に当たって、お互いの歴史記述の相違をすり合わせる作業が非常に困難だったとのことである。
それはきっと想像もつかないほどたいへんなお仕事だっただろう。
日韓の交流がこうした努力の上に成り立っていることに改めて思いを致した。
最後はチャルガチ市場を見学してお昼をいただいた。
巨大なタコやエイの開き?のような不思議なものがずらりと並び、販売員の女性たちの姿もかっこよく、
心躍る散歩だった。港からビートルに3時間乗って福岡へ。
船の中では、たくさんの印象を胸に、満足しながら眠りこけていた。
参加記がつい長くなってしまった。最後まで読んでくださった方にはお分かりと思うが、 とにかくこのツアーは内容盛りだくさんだったのだ。信じがたいほどに「コスパ」が高い。 そして、これらの旅程がスムーズに実行されたのは、旅行会社の方々のプロフェッショナルなお仕事のおかげにほかならない。 この場を借りて深く御礼申し上げたい。
[2017.12.15]