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  対馬と釜山から国境を考える    [pdf版]

田村慶子(北九州市立大学、JCBS会員)
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  2017年11月12-14日にかけて、「対馬釜山国境観光ツアー」の参加者は対馬と釜山を回った。 そのなかで私にとって印象深かったのは、対馬では韓国展望所と日露友好の丘、 釜山では五六島砲台跡と草梁倭館跡とである。

【韓国展望所】 
対馬から釜山を眺める(花松泰倫氏提供)

  対馬北端の韓国展望所からは、肉眼でも釜山の街並みがぼんやりと見え、 望遠鏡を使えば高層ビル群や橋、行きかう車さえもはっきりと見ることができる。 対馬は江戸幕府の外交の最前線で、朝鮮半島の文化が最も早く日本に到着した地だった。 1607年から1811年の間に12回来日した朝鮮通信史も、 展望所の下の港にまず船をつけて日本の土を踏んだ。 水平線の彼方から徐々に姿を見せる通信史一行の華麗な船団を想像しながら、 展望所から海の向こうの釜山を眺めるのはとても楽しい。
朝鮮訳官使一行の歴史と悲しい事故を伝える慰霊碑

  通信史だけではなく、江戸時代に釜山と対馬を50回以上往復した国家外交使節(朝鮮訳官使) も北端の港に入港した。ただ、1703年2月には悲しい事故も起こっている。 対馬をめざした108名の朝鮮訳官使一行が入港直前に突然吹き荒れた嵐のなかで遭難、 全員が亡くなったのである。展望台の近くには、遭難した外交使節団の慰霊碑が建ち、 彼らの無念さを伝えている。
  対馬はこのように釜山との長い交流と人の往来の歴史を持つが、 現在の対島には朝鮮半島の文化が残っているとはいえない。 私たち一行にずっと付き添ってくださった名物ガイドの「篤姫」 こと藤井敦子さん(対馬観光ガイドの会やんこも)は、 「今思えば、小さい頃には周りに多くの朝鮮半島出身者らしき人がいたが、 日本名だったこともあって、気が付かなかった」と言う。
  対馬に渡った多くの朝鮮半島出身者は、近代以降になると日本社会での朝鮮人差別を恐れて日本名(通名)を名乗り、 自分たちの歴史や文化を隠して暮らし、日本社会に同化してしまったのであろうか。
  ただ、貴重な交流の歴史を語り継ごうとする努力も行われている。 対馬市のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」と、釜山市の「釜山文化財団」 が共同申請し、朝鮮通信使の記録や資料がユネスコの世界記憶遺産に登録されることが決定した。 両国の資料が共同で登録されるのは初めてのことである。 豊臣秀吉による文禄・慶長の役ゆえに冷え切った両国関係を正常化させるため、 国書の「偽造」までした対馬藩の「英断」と、「偽造」を知りながら朝鮮通信使を派遣した朝鮮王朝。 「それぞれの利益のために行ったこと」と言ってしまえばそれまでだが、 歴史問題と領土問題を抱えてぎくしゃくする現在の両国政府もわたしたちも、 両国関係をよりよくするためになされた当時の対馬藩と朝鮮王朝の英知に学ぶところが多いのではないか。
 

【日露友好の丘】 
 
日本海海戦の碑(1905年)
上対馬の殿﨑には「日露友好の丘」があり、1905年に作られた日本海海戦(対馬沖海戦)の碑と、 海戦100年後の2005年にロシアが建立した日露友好の碑が並ぶ。日露友好の碑には、 海戦で命を落としたロシア兵約5000人、日本兵110人の戦没者の名が刻まれている。
  この海戦の際、撃沈されたバルチック艦隊の水兵143名は、4隻のボートに分乗し、この地に上陸した。 その後、西泊地区に移動したロシア兵に、対馬の人々は食べ物や衣類の提供を行い、 傷ついた兵士には傷の手当てをしている。 戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵たちを水の湧き出す泉へ案内し、 夜は西泊の民家へ分宿させるなど、手厚くもてなした。 水兵たちは翌日に軍用船で西泊を離れたが、船上の水平たちはオールを直立させて感謝の意を表したという。 この逸話ゆえに殿崎は日露友好の丘となり、遺族のみならずロシアの要人も多く訪れる地となっている。
日露友好の碑(2005年)

  この逸話は、1890年9月和歌山県沖で座礁したオスマントルコ帝国軍艦エルトゥールル号の乗組員約70名を 命がけで救助した串本町の漁民の話とともによく引用され、 「日本人の美徳」として称えられる。特に対馬の場合は、 戦勝国が敗戦国ロシアの水兵を助けたため、「やはり日本人は素晴らしい」という代表例として語られる。
  でも、世界各地の漁村では、遭難した船の乗組員を国籍に関係なく(敵味方関係なく) 助けたという話は数多い。 「海に生きる人々は、運悪く海に投げ出された人を決して見捨てない。 自分がいつ海に投げ出されるかわからないからね」と、私は串本町の関係者に言われたことがある。 対馬の人々と串本町の人々が漁民だったことが、バルチック艦隊の水兵とエルトゥールル号乗組員には幸いしたのだろう。
  海に生きる人の生活には国境も「政府の意向」もない。 わたしたちは、海に生きる人たちの優しさと「国民性」を混同することや、 ましてやそれを利用して国威発揚につなげるような愚かなことをしてはならないと思う。

【五六島砲台跡】
スカイパークからはこのように
対馬が見える(花松泰倫氏提供)
 
  11月13日午後、私たち一行は対馬比田勝発の高速船でわずか70分という短い時間で釜山に到着し、 すぐに五六島砲台跡を訪れた。驚いたことに、砲台跡の手前のスカイパークからうっすらとではあるが対馬が見えた。 天気がよければ釜山のあちこちから対馬が見えるとは聞いていたものの、 同じ日の午前に対馬から釜山を見て、午後には釜山から対馬をみるという国境ツアーならではの景色をまず堪能することができた。
一般公開されていない
砲台跡の内部写真
  五六砲台とは、日露戦争後に日本が本土防衛のために釜山五六島海岸に設置した410ミリ型砲台を持つ砲兵大隊の陣地のことで、 同じ規模の陣地は他に3箇所あったが、残っているのはここだけである。 もっとも砲台は地下にあり、まだ一般に公開されていない。 今後は内部を整備して、公開できるようにする予定であるという。 対馬にもこのような砲台跡があるので、 当時は、対馬と日本統治下の釜山の両方から対馬海峡を通る敵船を攻撃する計画だったのだろう。
   韓国にとっては日本植民地時代の屈辱の歴史ではあるが、貴重な歴史遺産として詳細な調査も進んでいるという。嬉しいことである。

【草梁倭館跡】
広大な敷地をもっていた「草梁倭館」
 
  砲台跡を歩いた後は龍頭山公園を散策した。 公園のなかの草梁倭館跡を訪ねるためである。 草梁倭館とは、朝鮮と日本の貿易を行う外交施設として1678年に設置され、 総面積33万平方メートル(東京ドーム7個分)におよぶ広大な敷地を持っていた。 そのなかには日本との貿易のみならず、北方の大陸物資と南方の海洋物資の中継貿易を行う施設もおかれていた。 様々な日本の産品も対馬を通してここに運ばれ、交換されたに違いない。
  残念ながら今はその建物は全く残っていない。草梁倭館は1876年以後日本人居留区として使われたが、 その後は壊されたのであろうか。 案内板には何も書かれていなかった。 朝鮮通信史同様に、草梁倭館についても日韓で史資料の整備が進むことを願うばかりである。
 
  最後に、今回の国境ツアーが実りあるものになったのは、花松泰倫氏(九州大学)のおかげである。 対馬と釜山の歴史的関係を熟知し、関係者との太いパイプを持つ花松氏がいなければ、 私たちは対馬・釜山国境ツアーの醍醐味を味わうことが出来なかっただろう。 花松氏に心から感謝したい。

[2017.12.11]


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