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  中露国境の新しい相貌    [pdf版]

木村 崇(京都大学名誉教授、JCBS会員)
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 この夏の中露国境紀行はアムール河とウスリー河の合流点付近を目指した。 中国とソ連という、社会主義国間同士の領土をめぐる武力衝突(ダマンスキー[珍宝]島事件)から数えて30余年、 最後まで帰属の決着が付かなかった川中島(大ウスリー [ヘイシャーズ] 島)を、 二等分という妥協策によってついに国境が確定したという問題地点の中露両岸に、日をまたいで立ったのである。 これはおそらく日本の団体旅行としては史上初の出来事だろうという。 私にとっては綏芬河からグロデコヴォへ抜けた昨年9月の旅に続く、2度目の中露国境越えであった。
 ウスリー河が尽きるロシア側の岸には、警備厳重なカザケーヴィチェヴォ村が位置している。 外国人はおろか現地で生活する人たちでさえ、 国境警備機関による事前の厳しい審査を経て発行された許可書を提示しなければ、 高い鉄条網で囲まれた村域に入ることは出来ない。 鉄条網の外側は、一帯が自然保護区に指定されており、 野生動物以外は容易に近づくことのできない「聖域」となっている。 我々は現地旅行会社を通じて2ヶ月前から申請してあったので、 予想していたよりはスムーズに「城門」を通過することが出来た。
  村の名は、東シベリア総督ムラヴィヨフ・アムールスキーが最初のスタニッツァ (「帝政期の旧コサック軍管区」の意)に対し、 アムール遠征に功績のあった海軍大将カザケーヴィチにちなんで命名したことに由来する。 1858年だというから、愛琿条約調印の直後のことである。 つまり、総督はそのときすでに2年後の北京条約締結 (これによりウスリー河右岸のすべてがロシア領となり、 軍港都市ウラジオストクを建設することが可能になった) を見越して、まだロシア領にはなっていなかった将来の軍事的要衝に、 先手を打ってスタニッツァを設営していたのである。 こういった裏面史に気付かせてくれたのは、 事務室と展示室の二間からなる粗末な平屋の郷土博物館であった。 村の人口は約3千人と聞いたが、その半数以上はかつてのKGBの流れを汲む連邦保安機関所属の軍人たち (海上保安庁などの警察系組織とはその点で異なる) とその家族である。 村には学校もあり、親の勤務地移動にともなう転校生を常時相当数受け入れなければならないので、 「余所者」の子女に対する郷土史教育の必要からこのような施設が作られ、 かなりの教養をそなえた学芸員(50がらみの女性)が配置されているのであろう。 現地ガイドの若い女性が懸命に通訳してくれたのだが、 ツァー客の一人が「コサックって何ですか?」と質問したのに対して、 学芸員の返答を待たずに「勇敢で、尊敬された軍人たちです」と答えたので、 同行者のなかのロシア通の人たちが、思わず大きな笑い声をあげてしまった。 これではいけないと思い、私は無礼にも失笑してしまった罪滅ぼしに、 「コサック」についての豆知識を披露した。 だがガイドさんはコサックの素性を知らなかったわけではなく、 とっさのことだったので、思わず「公式解釈」を語ってしまったのだということが分かった。
  スタニッツァを作るためには先兵を派遣しなければなかった。 ガイドさんは事前に相当の予習をしていたのであろう、 ムラヴィヨフがどのようにして派遣者を選定したかを詳しく解説してくれた。 東シベリア総督府の置かれていたイルクーツクにはコサック兵 (英語経由の外来語、原語は「カザキー[複]」)と大勢の流刑囚がいた。 ムラヴィヨフは独身のコサックではすぐに逃亡する恐れがあるとして (彼らの先祖はロシア本土の貴族が所有する領地から、追跡困難な南部辺境の河の畔などへ集団逃亡した農奴だった)、 徒刑囚の同伴家族のうちの若い女性たちを一列縦隊の兵士たちの横に整列させ、向かい合うように命じた。 そのようにして強制的見合婚で急ごしらえしたカップルがカザケーヴィチェヴォ・スタニッツァに 送られたのだそうである。しかしこれでは人数が足りないので、 にわか作りの囚人カップルも増援部隊として送られたともいう。 こうして、いうなれば最初の「屯田兵」が入植し、カザケ-ヴィチェヴォ村が形成されたのである。 学芸員は今日に至るまでの1世紀半の興味深い歴史を熱心に語ったが、 それについては別の機会があれば、そちらに譲ることにしたい。
  博物館を出ると、私たちは河岸にある小さな広場に案内された。 そこにはロシア国旗が一本ポツリと立っていて、広場の端には青ペンキ塗りの華奢な鉄製欄干が設けられていた。 警告の看板はなかったが、許可なくそれを越えて河岸に出てはならないというサインが込められているようだった。 ロシア側の地理学的見解に従えばウスリー河口はここで終わり、 その先に見えている流れは、ここからは見えない北側のアムール河本流とは別に、 川中島である大ウスリー島の南東岸沿に流れている分流だという。 ウスリーの流れは比較的透明で、その先、村からハバロフスクまでの流れはそれより濁っていることが、 そこから先はウスリーではなくアムール河であることを証明していると説明された。 この見解にはどうやら、大ウスリー島の西半分は、 ロシア側の一方的譲歩によって中国領になったという含みが込められているようだった。 「それならなぜあの島は “大ウスリー島”というのですか?」と聞いてみたかったが、 学芸員さんの機嫌を損ないたくなかったので黙っておいた。

わたしたちはそこで彼女を交えて記念写真を撮った。 対岸には「東」という漢字を象ったモニュメントらしい物が立っているのが目視できた。 そこは中華人民共和国の最東端である。 つまり太陽が中国で一番早く昇る場所だという意味を込めて建てられたものらしい。 対岸のアムール河分流のほとりに、かろうじてロシア領の造営物として残された「聖ヴィクトル小礼拝堂」が、 中国のモニュメントに対置するように島のロシア側国境の端っこに寂しく立っていた。 その間に見えている望楼のある白い建物は、中国側の国境警備施設であろう。
  学芸員さんはこの村がどんなに自然保護を大切にしているかを知ってほしいといって、村内散歩につきあってくれた。 これは何とかという樹木の変種だとか、ここには何とかという珍しい虫や動物が生息しているとか、 情熱を込めて説明してくれるのだが、私にはよく飲み込めなかった。 ふとボーダースタディーズ関連の企画で訪れた小笠原諸島の父島を思い出した。 あそこでは、外来の動植物が侵入しないように、「聖域」への出入りの際は異種の混入を除去するため、 靴底洗浄が徹底的になされていたが、どうやらここはそれほど厳密な保護措置がとられていないようである。 ロシアには自然保護区(「禁漁区」の意もある)が広範にみられるが、 どこでもここと同じくらい条件は緩やかである。
  散歩の終点は、養蜂業を営んでいる方の自宅であった。 そこでご主人一家(息子さんやお孫さんたちも動員して)の手料理による昼食がふるまわれるらしい。 ロシアの農村でよくお目にかかるタイプの「オバサン」が目の前の菜園でかがんで何かをしきりにむしり採っている。 私の前を横切ったので「ウクロップ(ういきょう)ですか?」と言ったら、 「そう、今日の料理に散らそうと思ってね」との返答があった。 私たちはいかにも手作りっぽいがかなりの広さのある台所を通って、その奥にある明るい食堂の間に招かれた。
  お客の皆さんは一様に、なぜこのような所に養蜂場を開こうとしたのか、その動機に関心が集中した。 ご主人は45歳で退役し年金暮らしを始めた元国境警備部隊の軍人だと自己紹介した。 退役と同時にこの土地を手に入れ、菜園での農業と養蜂業とを始めたのだそうである。

メインディッシュの巨大な川魚の燻製

メインディッシュは巨大な川魚の燻製3匹で、ご主人が手ずから大胆に切り分けて、全員に分配してくれた。 当地では通称「おでこでっかち」呼ばれる種類の魚で、サケ・マス類ではないそうだ。
かつてアムール河で長期にわたる調査活動を体験したことのあるというHさんは、 過去の苦い経験から(泥臭くて閉口したとのこと)けっして口にしようとしなかった。 皆さんが異口同音に「おいしい、おいしい」と言うのを聞いて、ようやく小さな一切れを口に運んだ。 ご本人がほほえんでみせたので、皆さん一斉に賞賛の笑い声をあげたのが印象的だった。

ブリヌィ

 デザートとしてテーブルに置かれたのはブリヌィ(何枚も重ねて出されたのを1枚ずつはがし、 4つ折りにして食べるロシア風「クレープ」であった)で、私たちは種類の違う蜂蜜をそれに塗って食べた。
  次から次へすすめられるので(ロシアではこれがふつうのもてなし)本当に腹一杯になった。 おしまいに「本格的な食べ方はこうだ」と言って、ご主人はいきなりブリヌィを扇子状に畳んで丸めると、 先端をどっぷり蜂蜜につけ、したたり落ちる前にがぶりと噛みついて見せた。 何人かが断り切れずに同じ作法で食べさせられ、また大笑いした。

 食事のあと、養蜂作業の一端を見学させてもらった。 アシスタントとしてツァー客中の最年長者と私が選ばれ、防禦衣装が支給された。 一段づくりと二段づくりの箱があった。 一段箱の中の蜂たちは今年生まれの若蜂、後者の箱の下段は越冬用の蜂たちの棲み家となるのだそうだ。 ご主人はアシスタントに煙を吹きかけさせ、蜂の群れを退けながら箱の内部を取り出して説明してくれた。
  ハバロフスクはかつて日本とのあいだで野球交流が盛んだった時期があり、息子さんも日本に招かれたことがあったそうだ。 その息子さん一家も一緒に暮らせるように、さらに土地を広げ、養蜂業を拡大したいとのことだった。 国境警備の軍隊暮らしのことは、つい聞きそびれてしまった。
  翌日は早々に新装開業の「ヴェルバ(ねこやなぎ)ホテル」を出て、3泊したハバロフスクに別れを告げる。 ソ連時代の泥臭さいような記憶が蘇ってしまう「インツーリスト・ホテル」でなくてほっとしたのに、 なぜか満たされない感覚が残った。バスはアムール河展望台の場所より少し上流にある船着き場に向かった。 河川とはいえ国境を渡るのだから通関や出国の手続きがあるはずで、その施設を探したが見当たらない。 いざ出発となったときはじめて、目の前に浮かんでいる平たい「艀船」のようなものがそれだと知った。 行列破りが常態の中国人旅客に負けてはならないと、役割分担をしてスムーズな乗船態勢を準備していたのだが、 拍子抜けしてしまった。乗船客は中ロ日をあわせてわずか60人ほどだったのである。 船は水中翼船だったが、この人数で満席となるほど小型なばかりか、おまけにかなりの老朽船であった。 ここから撫遠に渡る日本人団体旅行客などこれまでなかったのであろう、私たちは一番後回しにされた。 でもおかげで「出国」手続きはあっけなく済んだ。
  ボロ船なのに走りは安定していて、アムールをさかのぼること1時間半でもう中国側入国地点の撫遠に到着した。 ちゃんと桟橋があり、真新しい大きな建物まで、スーツケースを引きずりながら広場 (中国では最新の公共交通施設に隣接する空間が不必要にだだっ広いと思う)を横切って歩いていった。 船内で、ロシアの観光業者が自分の顧客たちに通関・入国審査のさいの注意事項をなんども繰り返していたのを思い出した。 大声で話したり、指示に反抗的な態度をとったりすれば中国の官憲はプライドが高いので、 厳しく処罰される可能性があるといっていたのだが、 施設内部のあちこちに掲げられた様々な警告文を見てあらためてそれを確認した。 中国側の出入国関係の係官たちは厳めしい制服に身を固め、 集団で現れると階級の上下をはっきりと感じさせる立ち居振る舞いをするので、 こちらもおもわず緊張してしまう。 でも、館内は「喫煙厳禁」のはずなのに、私たちは空席の係官用机の上にアルミの灰皿が置いてあって 吸い殻が2,3本残っているのを見つけ、声を漏らさぬようにして笑みを交わした。 ふと、思いの外時間がかかっているのが気になった。 我々の団体の一人が問題にされているらしいことに気付いたときは、一瞬緊張が走った。 なんでも名前が名簿とパスポートで綴りが違っているとして中国側係官が「いちゃもん」を付けたのだそうだ。 彼らにしてみても、ハバロフスから撫遠に入ってくる日本人の団体客を見るのは初体験だろうから、 それなりに緊張させられたのであろう。 せっかく中国への入国の手順も作戦が練ってあったのに、ここでも肩すかしを食らってしまった。
すこし砕けた口調の日本語を話す中国側旅行会社の現地案内人は出入国ゲートも臆することなく行き来しててきぱき仕事を片付け、 表に待たせてあったバスへと私たちを導いてくれた。 今晩の宿は中国東北部によく見られる「上級ホテル」だが、 シャワーは各室ごとに湯を沸かして貯め置くタイプで、タンクの容量は40リッターしかないという。 二人が連続して使用するにはすこし無理がある。 トイレも使用後の紙は流してはならず、設置されたかごに棄てなければならない。 この方式はすでにおなじみなので私は動じなかったが、妻の表情には困惑と抵抗感が見てとれた。
  魚博物館見学までかなり時間があったので、私と妻はホテル周辺を探訪することにした。市場が見つかった。 品揃えは川魚が半分、あとの半分は野菜・果物で、地元の生産者たちが収穫物を持ち寄って露店を構えているように見えた。 魚は流水を絶やさぬようにして鮮度を保っている。 スイカやトウモロコシは日本のものに比べて見劣りしたが、 ブドウは粒も房も大きい(巨峰の2、3倍はあった)のには驚いた。小さめの房を買ったが、それでも1キロあった。 10元(約200円)だから日本の感覚からすればものすごく安い。 夕食時に洗って出してもらい皆さんに食べていただいたが、それでもかなり残ったくらいである。  アムール河はロシア領側も中国領側も、もとはといえば赫哲(ナナイ人)の生活空間である。 彼らは川の恵みから生存にかかわるほとんどを受け取っていた。 大魚の皮をなめす技術にも優れていたから、衣服や履物ばかりか、テントまでも作っていたらしい。 魚博物館はチョウザメをはじめ、食用とされているあらゆるアムール河生息の活魚がみられたが、 その他にも先住民の生活を再現展示するコーナーがあって、こじんまりしてはいるものの、見応えがあった。 この点ではカザケーヴィチェヴォの郷土博物館も同じであると思った。 昼食は「赫哲料理」を出すというのが売りらしい、ホテルのはす向かいにあるレストランであった。
  食後ついにヘイシャーズ島と、漢字の「東」を象ったモニュメントのある烏蘇鎮を目指して出発。 観光局から二人のお役人が同行した。実は本年7月22日以降、日本人や韓国人(他に2つの国の名が上がったが、 メモするのを忘れた)はヘイシャーズに入れてはならないというお達しがあったそうである。 それを日本と中国の旅行会社の努力で、直前になって 「特例」(というのはこちらの勝手な解釈で、真相は詮議不能)として認められたらしい。 韓国の場合は北朝鮮のミサイルに対応するための「サード配備」が原因だろうと推定できるが、 日本の場合はもしかしたら、拘束中の「スパイ」が関係しているのではないかというのが、 私たちの到達した結論だった。 もしそうだとしたら、私たちは最初にして最後のヘイシャーズ訪問者になるのかも知れない。

巨大な灰色の「九重の塔」

  バスはきれいに舗装された道を快調に進む。やがて中国領となったヘイシャーズ島の領域に入ったが、 立派な自動車道路がどこまでも延び、大小の橋がしっかり架けられている。 昨日訪れたロシア領の大ウスリー島は、同じ島だというのに、 新たに架けられた白い橋だけは見栄えがしたけれど舗装路は直ぐに途切れ、 砂利道もどこまで延びているのか見当が付かなかったので、 途中で引き返してカザケーヴィチェヴォへ向かったのだった。 ロシア側からも小さく見えたのだが、巨大な灰色の「九重の塔」の姿がだんだんと大きくなって近づいてくる。 バスの止まった場所から「塔」まで二百メートルはあったが、私たちは歩いてそばまで行ってみることにした。

 
最上階からの景色

 中のエレベーターは動いていなかった。 大勢の観光客が訪れる時以外は節約しているのだろう。 何人かがらせん階段を上り始める。 山登りに比べればたいしたことはないだろうと思って、私も付いていくことにした。 階段は人が近づくと照明が点灯するシステムなのだが、ひどくタイムラグがあって、 何度も暗闇の中を手探りで昇るはめになった。 最上階からはカザケーヴィチェヴォの背後に広がる見覚えのある山々の姿がみえた。
  ヘイシャーズ島は湿地帯があちこちに広がっていた。これでは多分耕作地には向かないだろうと思った。 ロシア側の大ウスリー島も、目に入ってきたのは牧草地だけで、送電線と規模のさほど大きくない牛舎とが 唯一の構築物であった。 「祖国」の名の下で若者たちが血を流しあい、何十年もかかって妥協点を探った結果がこれだったのだろうか。 でも、けっして無意味なだけの紛争ではなかったと思う。 どちらの領土に足を踏み入れても、「安逸」とさえ言いたくなるような静寂さの充ちているのが感じられ、 双方の警備の厳重さも、今ではおそらく形ばかりのものになっているにちがいないからである。

ヘイシャーズ島には湿地帯を歩いて見て回れるように、総延長が1キロ半もある幅の広い木道が設置されていた。 「国立湿地公園」という看板から判断する限り、これは中央政府の決定で作られたものであろう。 驚いたことに、水の中から生えてくる植物は蓮だけを残してすべて刈り取られている。 刈り忘れられたのか、蒲の穂が何本か蓮の脇から伸びていた。 漕ぎ手と刈り手の二名を載せた木製のボートが紫色の美しい花を咲かせている草までも刈り取っているのを目撃したとき、 日本ともロシアとも本質的に異なる、太古から中国文化に貫かれているのであろう、 「自然」に対する頑強な価値観の存在を感じずにはおれなかった。

烏蘇鎭から対岸を見る

烏蘇鎭から対岸を見ると、記念写真を撮った青い欄干のある狭い広場と、 風がなくて垂れ下がったままのロシア国旗が小さく見えた。

東型モニュメント

 夕方近くなので傾き始めた太陽からの光が「東型モニュメント」に遮られ、 逆光を通して見ると「日の出の勢い」とは正反対の意味が伝わってくるようで面白かった。
 東とか西というのは自分の立ち位置から決めた相対的な方角に過ぎないのに、 そこに絶対的な価値を読み取ろうとする人間の愚かしさに気付かされたような気がしたのである。 国境だって、本当は人間の愚かさが生み出した虚像なのではないだろうか。

  撫遠に戻ってからの夕食は昼食と同じレストランだった。 全員が丸テーブルを取り囲んだので、自然発生的に活発な議論が起こった。 感心したのは、皆さんがそれぞれ少しずつ違った意見や見解を持っていて、甲論乙駁の状況が生まれたことであった。 言論の自由と、おたがいそれを護りあう(たとえ自分とは違う意見であろうとも)という姿勢は、 戦後日本が私たちの世代(私を含めた高齢者と、ほどなく高齢を迎えるらしい人々) に培ってくれた貴重な国民的価値ではないかと思った。

[2017.9.26]


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