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中露国境紀行:印象記   [pdf版]

黒岩幸子(岩手県立大学)      

 

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はじめに

 大学生で初めて海外に出てから早40年、2年半のモスクワ生活を含めて海外旅行が生活の一部のような年月を送ってきたが、今回は次の3点において人生初めての旅だった。
  1)国境越えを目的とする旅。海外から第3国に出たことは何度もあるが、それを目的にしたことはなかった。 激しい中ソ論争で世界の耳目を驚かせ、武力衝突まで起こした中露国境。 40年かけた交渉の末に確定した国境地帯が、現在どのような様相を呈しているのか、自分の目で確かめられるとは、いつになく心躍る旅だ。
  2)鉄路でロシアに入国する旅。私の訪問回数最多国はロシアだが、空路でモスクワに入ることが多く、鉄道での入国は初めてだ。 陸路ならば、30年前に車でフィンランド・ソ連国境を越えたことがある。モスクワの航空会社に赴任したばかりの私は、 先輩たちの助っ人を得てヘルシンキまで車を買いに出かけたのだった。 ソ連から出る際に、出入国管理官が私たちの居住登録証(これを失うとソ連に再入国できなくなる)を取り上げようとしたので、大もめに揉めた。 辟易しながら係官を説得して無事出国してみると、国境という一本線のその先には、うそのように平らな舗装道路と小綺麗な家屋、 色とりどりの商品が溢れていてキツネにつままれたようだった。実際には、フィンランドの田舎町に過ぎなかったのだが、 あの物不足のどんよりしたソ連から出ると、まるでおとぎの国のように錯覚するのだった。 ちなみに、ヘルシンキで手に入れた日本車は、2ヶ月後にモスクワの雪道でスリップ事故を起こして全損、お釈迦にしてしまった。
  3)観光団の一員としての旅。専門家たちが同行して、各地でレクチャーを受けながら移動するボーダーツーリズムとはいえ、これが「観光」であることに違いはない。 さまざまな代表団に通訳者として同行したり、グループで国際学会に参加したり、団体旅行ならいくらでも経験したが、観光団のメンバーになったことはない。 そもそも「観光」というチャラい(と私には思われる)私的行為を団体で楽しめるのだろうか。
  前置きが長くなったが、この特異な旅の印象をピンポイントでいくつか記したい。


1. 第731部隊罪証陳列館にみる中国の変化

  第二次世界大戦中に、細菌戦のための生物兵器開発や人体実験を行った大日本帝国陸軍の大規模な研究施設は、 今なお「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」(以下、罪証陳列館)としてハルビン郊外にその姿をとどめる。 16年前に訪ねたときには、731部隊が残していった施設に証拠品が展示され、壁には確か「勿忘国辱」(国辱を忘れるな)の文字が掲げられていた。 人体実験の様子を蝋人形らしきもので再現した生々しい展示があり、 野外には、敗戦後に証拠隠滅を計って施設を爆破した痕跡らしき大きな穴がいくつも残っていた。
  昨年リニューアルされたと聞き、日軍の残虐非道が超リアルに可視化された恐怖の蝋人形館みたいなものを覚悟して行ったが、 予想は完全に外れた。リニューアルというより、まったく新しい博物館が誕生したというべきだろう。広大な敷地がきれいに整備されただけでなく、 展示方法も内容も一変していた。「勿忘国辱」のコンセプトは消え、731部隊がこの地で何を目的として何を行ったのか、史実を示すことに重点が置かれていた。 部隊を率いた石井四郎の生涯、研究・実験のプロセス、関係者の証言、犠牲者のデータ、アメリカ側の資料などが淡々と提示されている。

731部隊が残した施設跡

  リニューアルにあたっては、イスラエルやポーランドのユダヤ人関連博物館を参考にしたのではないだろうか。 アウシュビッツやホロコースト記念館は、残虐な映像や写真を排して抑制的な展示に徹しながらも、 来訪者に人類の過去の罪悪について深く重い問いを投げかけてくる。
  実戦ではなんの効力もなかった細菌戦のために、なぜ帝国陸軍は莫大な資金を投じたのか、なぜ医療従事者がこれほど人命軽視の実験をできたのか、 なぜ途中でやめられなかったのか、いかにこの史実を後世に残すべきか、そして私たちが未来に向けてここから学ぶべきことは何か。 罪証陳列館の問いかけである。 一部の日本人が、「反日だ、誇張だ、信憑性に欠ける」などと抵抗している間に、中国は国際スタンダードに「成長」していた。 罪証陳列館は、ユネスコの世界遺産に申請されるそうだが、いずれ登録されるのではなかろうか。日本は反対するのではなく、 展示の精度を高めるために協力してはどうだろうか。
  なんだかブラックツーリズムの印象記みたいになってきたが、もちろん、私たちはハルビンで華やかな歩行者天国の中央大街も散策したし、おいしい中華料理も食べた。 そして、意気軒昂で夜行列車に乗り込んで綏芬河(すいふんが)に向かった。


2. 中露国境と旧姓併記パスポート

  中露国境は中国とロシアの辺境に位置する(あたりまえだ!)。 この2国の辺境とくれば、いやがうえにも連想されるのが、悠久的時間概念、超越論的脳天気、恐怖的厠所などだ。 いずれも私が苦手とするものだが、国境越えの代償として耐え忍ぶ覚悟はできていた。
  しかし、この覚悟は試されることなく、私たちはあっさりと国境線を跨いだ。 ロシアとの交流拡大に意欲満々の綏芬河の新駅舎には、真新しい設備の税関と出入国審査場ができて、若い係官たちがはつらつと働いている。 出国手続きを済ませて乗り込んだ国際列車は、サービスなのか技術的問題なのか、国境地帯の約30キロを自転車のようにのろのろ走るので、 両面に「中国」「ロシア連邦」と刻まれた国境標柱を車窓から目視できた。ロシア側のグロデコヴォ駅に到着すると、少々待たされたとはいえ、 順調に入国・税関審査が終わり、駅舎の外には迎えのバスが待っていた。

綏芬河の国門(国境)

  つつがなく終わった国境越えではあるが、個人的にはドキリとする場面があった。 綏芬河の出国審査官が、私のパスポートをしばらく眺めて、「このカッコ付きの名前は何?」と尋ねてきたのだ。 自分が旧姓併記パスポート所持者であることを、はたと思い出した。
  周知のとおり、日本は先進(と称する)諸国の中で今なお夫婦別姓を認めない唯一の国だ。 その弊害を緩和するために、旧姓使用を認める公的機関は広がっている。 私は結婚・入籍と同時に大学に「旧姓使用届」を提出して学内では「黒岩」で通し、 社会的にも原則として「黒岩」で生きている。 しかし、健康保険証や自動車免許証など身分証明に必要な肝心の書類には戸籍名の「木村」しか使えないため、 私が「黒岩幸子」であることを公的に証明するのはけっこう難しい。特に海外が絡んでくると、 なぜクロイワユキコがキムラユキコのパスポートを持っているのか、ややこしい話しになる。
  日本国旅券に旧姓併記が可能と知り、2009年に即座につくり直した。 パスポートのICチップの入力は戸籍名のみだが、写真の頁には旧姓も併記されている。 姓は「KIMURA(KUROIWA)」、名は「YUKIKO」、自筆署名欄は「黒岩幸子」だ。綏芬河の係官は(KUROIWA)を問題にしたのだ。 旧姓だと答えると、「あなたの母親の国籍は?」。父母ともに日本人と答えると、下がって待つように指示された。 やがてちょっと偉そうな係官が登場して、私のパスポートを持ってドアの向こうに消えた。
  このパスポートに因縁をつけられたのは、これが2度目だ。1度目は7年前にウラジオストク空港の入管で、 「姓を2つ持っている日本人はいないはず」と指摘された。 旧姓併記を説明すると、「あなたの本当の姓はどちら?」。問い合わせて確認するといわれ30分待たされた。 それ以来どこの国でも問題にされたことはなく、すっかり忘れていたが、どっこい綏芬河は違った。
  私だけ列車に乗り遅れて中露国境単独サバイバルツアーという好ましくない未来図を描き始めた頃、パスポートは戻されて無事に出国審査を通過した。
  ところで、ときに面倒を引き起こす自分のパスポートについて、私は日本外務省にクレームすることはできない。 旅券申請の窓口で、「旧姓併記の旅券によって、あなたが何らかの不利益を被ったとしても、日本外務省は責任を負いませんが、それでよろしいですね」 と口頭で念押しされたからだ。
  それにしても、3日前に入国させておいて出国する際にパスポートで云云する綏芬河の審査官はヘンだ。 それに、ロシア外務省発行のビザがべったり貼付いているパスポートに難癖をつけたウラジオストク空港の審査官もヘン。 そして、何が起こっても責任はとらないと予告してこのパスポートを発行した日本外務省はもっとヘンだ。
  日本もいい加減に夫婦別姓を認めてほしい。 私は、女性の自立とか男女平等とかを主張しているのではない、単に別姓の方が合理的だと言っているのだ。 女性たちが父親の庇護から夫の庇護に手渡された時代は前世紀に終わった。 今や嫁入り前の娘だって(婿入り前の息子同様に)、銀行口座、クレジットカード、種々の免許証を持っているのが普通だし、各種の資格証書やら登記だってある。 それを全部書き換えるのは大変だし、第一、人生の途中で姓が変わると不便なことが多い。
  人様に別姓を押しつける気はないので、選択的夫婦別姓で十分なのだが、 それすら許さない「右巻き」の方々は、自分たちが日本の婚姻制度の崩壊に手を貸していることに気づかないのだろうか。 入籍や旧姓使用の不便を嫌って、世の中では事実婚が増えている。愛情だけをベースに成立した家族の絆は強いですよ。 次々と事実婚の家族が国家制度の枠外に形成されると、いつか日本の婚姻制度も戸籍制度も破綻しますよ!
  あれ?中露国境紀行のエッセイなのに、なぜ私は選択的夫婦別姓制度を語っているのだろうか。とにかく私たちは、大はしゃぎで鉄路の中露国境越えを完遂し、 グロデコヴォからバスでウスリースクを経由して、(相対的に)華やかなウラジオストクの街に到着した。


3. 戦(いくさ)の誉れ博物館にみるロシアの国境意識

  7年ぶりのウラジオストクは、2012年のAPECと私たちの訪問直前に開催された東方経済フォーラムを経て変貌していた。 立派な斜張橋が半島と島を結び、ペテルブルグのマリインスキー劇場の支部が夏に杮落としを終え、アジア有数の巨大水族館ができ、 4つの大学を統合した極東連邦大学がルースキー島の新キャンパスに移転し、 コジャレたレストランが開店し、街を歩く人々も心做しか以前より自信ありげに見える。
  金角湾クルーズや専門家の街案内とレクチャーなど充実したスケジュールをこなし、 旅も終わりに近づいた最終日に訪ねたロシア連邦安全保障局管轄の「沿海地方国境警備局 戦の誉れ博物館」は、 文句なしに私にとっての最大の旅の収穫だった。これほど見事にロシア人の国境意識を可視化してみせたものに初めて接したからだ。 さすが、国境学の先端を走る岩下明裕氏が企画、監修、自ら参加したツアーだと感服した。 以前からあったというこの博物館の小さくて地味な入り口に足を踏み入れたのは初めてだ。
  そう広くないが4階まである博物館は、さまざまな展示物を駆使して沿海地方国境警備隊の「戦の誉れ」を余すところなく表現している。 国境警備隊員は、国境防衛を義務とし、誇りとし、国境線は1ミリたりとも動かさず、アリ一匹通さず、そのためには喜んで命も捨てる。 そこには、この国境線は正当に引かれたのか、妥当であるか、国境紛争をどう捉えるか、他国からの異議申し立てにどう応えるか等々の疑義を差し挟む余地はない。 (ソ連/ロシアが主張する)所与の国境線があるだけだ。
  この博物館に示される国境意識を内在化させたロシア人に、実は、世界はソ連/ロシアの膨張を怖れて、冷戦期にはソ連封じ込め政策をとり、 日本は常に北からの脅威に備え、ロシアの西に位置する諸国は今も必死にNATOの庇護を望んでいると伝えても、さっぱり理解できないだろう。 我々はひたすら防衛に徹しているだけで、我が国境線を脅かしているのはあなた方だと反論されるにちがいない。
  程度の差はあれ、これは東西を問わず総じて各国が持つ国境意識というもので、線の内か外かで意識は変わる。 これについては、岩下明裕『入門国境学』(中公新書)に詳しいが、特に同書の第6章「国際関係をボーダーから読み換える」を理解、消化するのに、 この博物館は役立つと思う。国境の存在はあなどれない、 それは国際関係の従属変数ではなく、逆に国際関係を動かすファクターになると実感できるからだ。
  展示を見ながら足を進めるうちに、あらためて領土問題、国境紛争の難しさを痛感するとともに、国境には共時態だけで、通時態のないことに気づいた。 現在の国境線がすべてで、それを揺るがす歴史や国際法や正義や対話を持ち込んではいけないのだ。
  清国から沿海地方を奪った北京条約(1860年)、曖昧なソ満国境をめぐって関東軍とソ連軍が衝突した張鼓峰事件(1938年、ロシアでは「ハサンの戦い」)、 ウスリー川中州の領有権をめぐり中ソが軍事衝突を引き起こした珍宝(ダマンスキー)島事件(1969年)の展示と並んで、 現在の国境警備隊の活動や、国境地帯の警備方法が示される。 国境線においては、帝政ロシア・ソ連・ロシア連邦の体制転換も、19・20・21世紀の時代推移も意味を失い、 国境警備兵たちの変わらぬ愛国心と勇気が均質の「戦の誉れ」を支え続ける。
  むろん、北海道と四島の間には迷いのない一本線が引かれていて、北方領土問題など存在しない。 それでも入念に探すと、「クリルはロシアの土地!」という見出しの新聞記事の展示があるが、 すっかり黄ばんだ1960年代の「ウスリーコサック通報」の記事で、現在とは結びつきにくい。
  展示物の説明はかなり雑だ。 始まりは、1860年の北京条約調印後に国境線上に設置された本物の標柱だ。 ロシア側には「M」、中国側には「瑪字牌」(M文字の碑、「瑪」は「M」の音表記)と刻まれている。 だが、ロシア語の説明文によると「瑪字牌」は中国の省の名前だ。 北京条約で中国に割譲させた土地は無人で、ロシア人が開発したというのがロシアの言い分なのに、この説明では中国の地名があったことになるではないか。 この誤りを指摘された館員の女性は、「あら、そうなの」と泰然としている。 ほかの展示物の前で私たちが興奮気味にあれこれ話していたら、「あら、また何か違ってる?」とにこやかに尋ねられた。
  ダマンスキー事件のコーナーにある2葉の写真には驚いた。有刺鉄線の向こうで毛沢東語録らしき手帳を振りかざしている中国兵3人。 そして、自分の背丈の倍はありそうなさすまたを抱えて八輪車の上でポーズをとるソ連兵たち。 説明文も日付もないので、よくわからないが、話しに聞く軍事衝突が幕を切って落とす直前の様子にも見える。 (詳しくは、岩下明裕『北方領土・竹島・尖閣、これが解決策』朝日新書、188-192頁)。


攻める中国兵

迎え撃つロシア兵

  展示物の解説があまりに大雑把とは言え、この博物館で学んだことは多い。 国境では電流による警報システムが24時間態勢で作動していて、不審者が侵入すると即時に3方から警備隊が捕獲に向かう。 そういえば、綏芬河のホテル裏手のフェンスには、「珍惜生命 勿越国境」(命が惜しければ国境を越えるな)の看板が、 ご丁寧に気味の悪い遺体の写真まで添えてかけられていた。 松茸や猟を目的に国境地帯に入り込んだところ、2人は国境警備兵(中露どちらかは不明)に撃たれて、1人は警備兵の犬に咬まれて、 もう1人は毒蛇に咬まれて死亡したとのこと。
  なぜロシアの入国審査にあれほど時間がかかるかという長年の謎も解けた。 出入国審査は国境警備隊の所掌なので、審査用の機器が展示してあり、件の館員がその使い方を親切に実演してくれた。 その機器のレーザー(?)を当てると、偽旅券はすぐに見破られる仕掛けだ。 ロシア旅券の各ページに書き込まれた文字数や綴じた縫い目などをチェック、頁数などは蛍光塗料が使ってあるのか光っている。 不審な切り貼りや糊の使用はすぐにばれる。 出入国で押されるおなじみのスタンプも、そのレーザーのもとで怪しく発光しているではないか。 飛行機か船かバスの稚拙な絵が入った安っぽいゴム判だと軽蔑してきた自分が恥ずかしい。
  博物館を後にした私たちは、ウラジオストク空港へ向かう途中で日本人死亡者慰霊碑に献花した。 それにしても、北東アジアを歩けば、望郷を胸に倒れていった日中露その他の国々の兵士、民間人が近過去にいかに多いかを思い知らされる。 みんな、無念だったろう。いつか「戦の誉れ」ではなくて、「戦の哀れ国際博物館」を立ち上げてほしい。
  なんだか、また暗い話しになってしまったが、ウラジオストクの新旧の町並みをそぞろ歩くのは楽しかった。 とりわけ華を感じたのは、極東大学校内にひっそりと建つ与謝野晶子の詩碑だ。 1912年5月、晶子は夫の鉄幹を追ってウラジオストクからシベリア鉄道に乗りパリを目指した。 大国の野望の象徴のような鉄道も、晶子にかかっては愛を貫く移動手段でしかない。 詩碑に刻まれた「旅に立つ」の一節とともにウラジオストクに別れを告げよう。

 晶子や物に狂ふらん、
 燃ゆる我が火を抱きながら、
 天がけりゆく、西へ行く、
 巴里の君へ逢ひにゆく。
 


4. 究極の添乗員

  冒頭に述べた観光団についての危惧は杞憂だった。 「中露国境」だけをキーワードに集まった、年齢、性別、出身、職業、性格の異なる人たちと、いろんな話しをしながら旅するのは愉快だった。 快適な旅が成立したのは、企画立案者と旅行社による事前の周到な準備があったことを忘れてはなるまい。 この場をかりてお礼申し上げる。
  だが、最終的に参加者全員を満足させる旅に仕上げたのは、ロシア国境警備隊も顔負けの24時間体当たり添乗業務を一人でこなした山田美帆氏の存在だ。 それは信じ難い労働量だった。 団長および現地ガイドと常に擦り合わせしながら旅程が順調に進むよう調整しつつ、モーニングコール、荷物の確認、人員点呼、3度の食事、 ホテルのチェックイン/アウト、団員の安全と体調の配慮、忘れ物や遅刻など突発事件への対応、観光、 ショッピングなど団員の個別の要望を満たす工夫・・・数え上げたらきりがない。 ハルビンではエレベータのない旧ヤマトホテルで団員のトランクを2階から降ろし、 食事では毎回飲み物の注文を取り、気の利かないロシアのレストラン従業員を叱咤し、それでも改善されないときは自らビールを運び、 集金し、団員が買った土産物の梱包を采配し、ウラジオストクでは献花用の菊の花を人数分用意し、 団員が道路を横断している間は自ら体を張って車を止め、日本人の使用に耐えるトイレをみつける。 何よりも驚いたのは、彼女が一度も疲れた顔、うんざりした顔を見せずに飄々と仕事をしていること、まさに究極の添乗員。
  なぜ添乗業務に刮目したかというと、実は私自身が28年前にもぐりの添乗員を2回やった経験があるからだ。 モスクワを拠点にあちこち旅行もしたが、当時はまだシベリアと中央アジアに行ったことがなかった。 そこで、コネを使って旅行会社を紹介してもらい、イルクーツク・ブラーツクとタシケント・ブハラの旅の添乗をやらせてもらったのだ。 はなから人様の旅行に便乗してただで見物する魂胆だったので、現地のインツーリスト・ガイドに任せっぱなしで、客の世話をした記憶がない。 ただで行ける海外旅行のつもりで添乗を希望する若い女性が後を絶たず、今も添乗員の質と報酬は低いままと山田氏から教えられ、痛み入った。
  そんな私が言うのもなんだが、お仕着せのハワイツアーならともかく、今回のような特殊な観光ツアーは添乗員の質が旅の成否の鍵を握る。 これからは観光客自身も添乗業務を理解し、山田美帆のようなプロフェッショナルがもっと増えて正当な報酬で活躍できるようになってほしい。
  インチョン空港で解散して2週間経った今も、私は外出時に彼女の口調で独りごちる癖がとれない。 「忘れ物はありませんか?」「トイレは済ませましたか?」「足元にご注意ください!」 この3フレーズは無意識に定着したが、意識的に生活に導入したフレーズもある。 「パスポートはありますか?触って確認してください」。 そう、財布とか携帯とか、大切な物は目視でなく触って確認するようになったのだ。


5. ソウルで体験した「戦中」

  ウラジオストクからはソウル・インチョン空港に飛び、そこから各自が選んだ便で帰国した。 私と夫は久しぶりに訪れたソウルにオプションで2泊した。 訪ねたかったのは、先述の『入門国境学』で「領土の構築性を学ぶ最適な場所」(114頁)と紹介された独島体験館(以下、体験館)だ。
  2012年に開館したのに、あまり知られていないのかガイドブックにも載っておらず、 感じのいい受付のお嬢さんたちの案内で入ってみると閑散としている。 なぜか『三国志』から始まる展示は、『入門国境学』(112-116頁)に批判されているとおり、 独島が韓国領であるとあまりに熱く主張するせいで、逆に「なんちゃって独島」みたいなシラケた雰囲気を醸し出している。
  ただし、笑い倒すだけですまないのは、自国の主張を一方的に述べる国民教育施設という点では、日本の北方領土啓発施設と同じだからだ。 北海道各地にある北方領土館などをのぞいてみると、かつては北方領土を南千島と呼んでいたこと、 日本が戦後しばらくは2島返還を目標としていたこと、先住民のアイヌをどんな目に遭わせたかなど、都合の悪いことはすべて抹消されている。 体験館の方は、抹消だけでなく捏造も加わって度が過ぎているだけだ。
  しかし、日本の啓発施設と決定的に違う点が1つある。 それは体験館の強力なエンターテイメント性だ。例のお嬢さんたちに誘われて入った4Dシアターは、 ディズニーランドの昔のアトラクションを思い出させる内容だった。 3D用の眼鏡をかけて席に着くと、上映開始と同時に座席が激しく揺れ始め、超小型宇宙船(空中・海中も移動可能)に乗っているらしい私たちは、 猛スピードで大気圏に突入して独島に接近、その周囲と洞窟を徹底的に飛び回ると、 次は海中に飛び込んで水面下の独島の形状を同じく猛スピードで見て回る。
  スリルと迫力を満喫しつつ、独島の地理を体に叩き込み、韓国固有の領土に対する愛を深めるというシナリオだ。 さらに極めつけは、体験館を出たところで受付嬢が礼儀正しく手渡してくれたお土産だ。 それは、独島をかたどったチョコと太極旗が載っているマドレーヌだった。舌がとろけそうな高級菓子なのに、 夫が固辞するので2つとも私の胃袋に納めてしまった。 楽しく、美味しく身体性を与えられて韓国国民に定着する独島。 北方領土をアトラクションにしたり、チョコにして舐めさせたりしたら、元島民や根室市民から「ふざけるな」とクレームがくるだろう。 竹島のような無人島だから好きかってに扱える、つまり構築性が高くなるということだ。

銘菓 独島マドレーヌ

  竹島問題の解決は夢物語だと思いつつ、次に出かけた戦争記念館でさらに驚かされた。 広大な敷地に立つ建物の巨大さに圧倒されながら中に入ると、入り口の戦死者検索システム(朝鮮戦争時の行方不明者だろう) やすべての戦死者を祀る「護国追慕室」がある。ところが、そこを過ぎると、またしてもエンターテイメント性が出てくるのだ。 最大規模の展示である「韓国戦争(朝鮮戦争のこと)室」にも4Dシアターがあり、入ると強烈に冷房が効いている。 3D用眼鏡で映像を見ながら酷寒の38度線での攻防を体感するためで、雪のつもりか白い綿毛みたいなものも飛んできた。 一時は退却しながらも、勇敢に戦って敵を押し返し、休戦協定に至ったというシナリオだ。
  「国軍発展室」では米兵と肩を並べる韓国兵や韓国軍の最新装備などが強調され、シミュレーション射撃体験もできる。 どこまでも明るく、楽しく、カッコイイ展示ばかり見せられると、ちょっと待ってくれと言いたくなる。 「敵、敵」というけれど、もとはといえば同胞でしょうが。 市民も巻き込んだ陰惨なフラトリサイド(兄弟殺し)の悔恨も苦痛も感じられないのはなぜ?
  この疑問にはすぐ自答できた。戦中(正確には休戦中)だから。 戦時の戦争記念館が戦意発揚の場になるのは当然だ。 なぜ半島が分断されて家族が生き別れになったか、なぜ双方が外国軍に後押しされて戦ったか、 38度線で対峙し続けながら、実は、統一して朝鮮半島に強力な反日国家ができるのを望まない本当の「敵」に塩を送っているのではないか。 こんな疑問をもったら、突撃命令が出ても敵陣に飛び込む気はしないだろう。
  ソウルの街を歩くと、韓流ドラマに出てきそうなマッチョなイケメンがいっぱいいて、 日本でよく見かけるアキバ系ヘロヘロの兄ちゃんたちは極端に少ない。徴兵制が顕在化している。 ついでに言わせてもらうと、点と線みたいな細長の目の女児が多いのに、一定年齢に達すると9割方ぱっちり二重まぶたの同じような顔つきになるのも気になる。 画一化した思考停止の肉体によからぬ思想を吹き込まれるとどうなるか、軍国少年少女を育てあげた戦中の日本を批判的に学んでほしい。
  余計なお世話といわれようと、同じ北東アジアの一員として、再び与謝野晶子の詩の一節を送ってソウルとお別れしよう。

 
  旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて
 あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、
 末に生れし君なれば、親のなさけはまさりしも、
 親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、
 人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや。


おわりに

  かくして「中露国境紀行+ソウル」は無事終了した。 どの街も予想以上に華やかで活気があり、経済発展への強い志向をみなぎらせていた。 その志向が時間とともに調和をもって展開していくことを願わずにはいられない。
  国境のハードルが低くなり、日本海を多数の空路・航路が横切り、大陸・半島・島の鉄道・自動車網を自在に移動する各国の旅行者たちが、 複言語主義・複文化主義の浸透した北東アジアを存分に満喫できる日。ビザは不要でパスポートだけをハンドバッグに突っ込み、 ハルビンで飲茶の後に、綏芬河の免税店で買い物三昧、国際列車の食堂車でワインを傾けながウラジオストク到着。 そこでドレスアップしてマリインスキー劇場のオペラへ。
  決して夢ではない近未来のはずだが、残念ながらこれとは真逆のあまり書きたくないシナリオも想定される。 国境は閉ざされ、不寛容と暴力、憎悪と不信が蔓延する日。今回のツアーに現地で合流して、 私たちに北東アジアについての知見をわかりやすく解説してくれた環日本海経済研究所の三村光弘氏は、 旅の途中で北朝鮮の核実験に関するコメントを日本の新聞社に求められていた(2016年9月10日、朝日新聞、「米へのアピール狙いか」)。 暗いシナリオを阻止し、明るいシナリオを実現させるために、何をすべきで、何ができるのか。楽しい旅からいただいた重い宿題だ。
  中露国境紀行を実現させるために苦労して道を切り開いた先人たちに深い敬意を表し、 ともに旅をした仲間と各地で様々な好意を示してくださった多くの方々に深謝し、 私たちに続いて北東アジアに向かう旅人が増えることを祈念しつつ、すっかり迷走してしまった私の印象記を終える。
  其实地上本没有道、走的人多了、也便成了路。(もともと地上に道はない、歩く人が多くなると、そこに道ができる。魯迅『故郷』より)

ウラジオストクで永久の愛を誓い合う!

[2016.9.30]


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