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半世紀来の宿願だった「中露国境紀行」    [pdf版]

木村 崇    

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 朝10時、中露国境を越える列車は新装成ったばかりの綏芬河(スイフンガ)駅をゆっくり離れる。中国の鉄道は山道が苦手なのか、どこまでも徐行運転が続く。 小半時ほどした頃か、線路脇に立てられた中露国境標石が進行方向左側の車窓に突然現れた。 意外に小ぶりだった。気付いた私たち日本人乗客が歓声を上げた。中国人やロシア人の同乗者が一斉に振り返ったが、しっかり目視できて嬉しかった。 終着駅に到着する。プラットホームがないので、それぞれスーツケースを持って1メートルほど下の軌道上へじかに下りる。 広軌のレールをやっとの思いで横切ると、今度は膝くらいの高さのプラットホームに自力でよじ登らなければならなかった。 なぜこうなったかというと、同じ広軌でも中国とロシアでは巾が違うからだ。 ロシア側の国境の町グロヂェコヴォのくたびれた駅舎で、じっくり時間をかけた入国手続きがようやく終わる。 18名の日本人団体客を乗せたバスは平地の続く立派な舗装道路を快調にとばし、やがてシベリア鉄道終点まで100キロの地点にあるウスリースク市に入った。 そこからウラジオストクまでの道路沿いに巨大なお椀形のアンテナを空に垂直に向けて立っているのが何基も見えた。国際宇宙ステーションと交信するためらしい。 かつては沿道のあちこちで自然発火して煙を巻き上げていたゴミ廃棄場は見当たらなかった。 これも4年前にウラジオストクで開催されたAPECのおかげだろうか。
  とおい昔の話になるが、1963年の8月半ば、私はモスクワに新設された民族友好大学に留学するため、同期の12名とともに横浜からナホトカへ渡り、 シベリア鉄道の寝台列車に乗ってハバロフスクに着いた。モスクワ行きの飛行機搭乗には時間があったので、市内見学に誘われた。 ハバロフスクは、レールモントフが『現代の英雄』で黒海沿岸のタマーニという町を形容するのに使った「スクヴェールヌイ(適訳がみつからない)」 という言葉通りの、典型的ソ連型地方都市の相貌をさらけ出していた。 それはさておき、日本語の堪能な朝鮮系ソ連人の案内者の口から発せられたある言葉に衝撃を受けた。 彼はアムール河の彼方を指差して「あの先はもう満洲ですよ」と言った。 それが鮮烈な記憶として私の脳裏に刻まれたのである。
  私はかつてあった満洲の東満省勃利という町の生れである。生前の母からはいつも「ソ満国境の近くだよ」と聞かされていた。 関東軍の職業軍人であった父は1944年8月、日米両軍の決戦地のひとつとなったフィリピンへ送られ、翌年5月に戦死した。 夫を戦地に送り出してから母は生後4ヶ月の私を抱いて、朝鮮半島を経由して北海道の実家になんとか無事帰った。 したがって私にはもちろん父の記憶も、生地勃利の記憶も皆無である。 しかし不思議なことに、年をとるにつれ「望郷の念」はますます募ってきた。 さいわい2年前、中国語が専門のある友人の尽力によって、長春、佳木斯、牡丹江、延吉など中国東北地方の大学教員の方々の物心両面の援助を得て、 勃利行きを実現することができた。この好意にはいつか報いなければと思っている。 自分の生地であり父母が新婚の日々を過ごした場所に立つことが出来て言い得ぬ感激を覚えた。 けれども53年前の「いつかソ満国境を越えよう」と決めたあの思いが、いまだ満たされていないことにも気付かされた。 今回の中露国境紀行の話にいち早く乗ったのは、こういう個人的事情があったからである。
  思えば、自分の生誕と縁のあった土地は、日本、ロシア、中国、朝鮮の人々に、それぞれに深く忌まわしい記憶を残した支配・被支配と、 それがもたらした戦争の体験とが密接に関係している。その現実に堪えられる覚悟がなければ、おいそれと足を踏み入れることはできない土地だった。 ただ、勃利を案内して下さった郷土史家の方から「あなたは私の同郷人です」と言われ、 佳木斯大学の教授夫人から「赤ちゃんだったあなたに罪はありませんよ」と慰められたときから、少し考えが変わった。 これから中露国境地域に足を踏み入れる自分は、できる限り個人体験的な立ち位置から離れ、 歴史的な意味で価値中立的でいられるように努めようと心に決めた。
  今回の旅行の参加者のために、私は二種類の簡単な資料を用意した。 ひとつはウラジオストクの歴史文書館でずいぶん前に入手した電報のコピーである。 打電の主は、伊藤博文が哈爾浜(ハルビン)駅で車中会談をした相手、つまり当時のロシア蔵相だったココフツェフである。 彼は事件直後、伊藤の死を見届けてから第一報としてロシア皇帝とペテルブルグの日本大使宛に事件の概略を伝える電報を打った。 実を言うと私は20年近くこの電報を死蔵していた。旅に先立って思い出し、探し出して読み返してみた。 そして巷間に伝えられていないある事実に気付き、ハルビンの現地で皆さんと推理してみたいと思ったのである。
  もうひとつは、日露戦争勃発の危機が迫っていた頃、ロシア帝国の極東地方各地に定住していた大勢の日本人を一時帰国させるため、 チャーターしたイギリス船の船客名簿について解説した私の研究報告レジュメである。 『敦賀帰朝人名簿』と題するこの資料は、露探と呼ばれたロシア・スパイを摘発するためと防疫の必要から、 福井県が乗船者の詳しい個人データを調べ、自発的に作成して時の外務大臣小村寿太郎に提出したものだった。 私は一時「きたゆきさん」に関心を持っていたので、ウラジオストクの歴史文書館で日本娼館に関する資料をあれこれ調べていた。 名簿の現物コピーは、私のところで浦潮本願寺の住職大田覚眠に関する博論を準備していた院生が東京の外交文書館で入手し、 私の研究テーマに関係するのではと紹介してくれたものである。 そこにはあきらかに娼家経営関係者と思われる人たちの、出身地や職種を含むくわしい情報が載っている。 今回の旅行参加者の皆さんにはきれいごとだけではなかった日露関係の一端を垣間見る形でもよいから、 ウラジオストクという町の歴史上の現実を知ってほしいと思って用意した。

哈爾浜(ハルビン)市

  私が伊藤博文暗殺事件の関連資料を配布したため、過密スケジュールに「安重根義士記念館」訪問を割り込ませることになり、 関心のない方々には申し訳なかった。 ハルビン駅舎の入口付近に設けられたこの博物館は韓国のパククネ大統領と中国の習近平主席の合意で作られたようである。 日本には中韓両国が「テロ行為を賛美している」と非難する人たちがいる。 だが「義士」は「テロリスト」と同義だし、記念館は安が当時の法律に照らして犯罪者であったことを否定してはいず、 裁判自体を認めないといっているわけでもない。 むしろ上告を断念した安がすすんで「殉教者の道」を選んだという点を印象づけているように思われた。 記念館の展示方針に不満があるとすれば、安が自分の思想をまとめようとした「東洋平和論」(獄中では序文までしか書けなかった)は 日本の「大アジア主義」(日本右翼思想の源流のひとつ)に通底するものであったこと、 彼自身が明治天皇崇拝者であったこと(安の認識では伊藤は明治天皇を裏切り、孝明天皇「殺害」にも荷担した人物だと信じていた)などが、 きちんと指摘されていない点である。
  だが私の関心は別のところにあった。 東清鉄道管轄内での事件についてはロシア政府が裁判権を持つはずなのに、逮捕した安やその他複数の朝鮮人容疑者たちを日本側にあっさりと引き渡したのはなぜか、 という疑問である。 清国領土内の殺人事件であったにもかかわらず、安重根が朝鮮人であったため治外法権の対象であったから、清国に引き渡すという選択肢はなかった。 ロシアが自ら裁判権を「放棄」した理由をうかがわせるヒントがココフツェフの電文の中に隠されている。 電文の終わりの部分に「昨日蔡家溝駅で我が警官によりブローニングを所持する3名の不審な朝鮮人が逮捕されていた」という文言がそれである。
  ココフツェフは視察のためにシベリア鉄道で哈爾浜を訪れていた。伊藤は日露戦争の「戦利品」である南満州鉄道を使って哈爾浜駅に向かった。 蔡家溝駅は長春と哈爾浜の中間地点にある。つまりここで前日捕まった3名の朝鮮人は伊藤の通過を確認するための見張り役だったのである。 だとすればロシア側官憲は朝鮮人による集団的暗殺計画が準備されていたことを事前に察知していたはずである。 安全確保のためわざわざ日本側車両内で持たれた20分の会議の後、儀仗兵による閲兵式まがいの歓迎をして、 宴席の用意してあったロシア側車両に伊藤博文を案内しなければ、暗殺は未遂に終わっていたはずなのである。 朝鮮人によって伊藤博文が狙撃される可能性があることをロシア側官憲は前日にはつかんでいた。 その情報を知る位置にあったある人物(ロシア側の、しかも自国政府に対してひそかな悪意を抱いていた誰か)は プラットホームに伊藤がかならず姿を現すことを知っていた。伊藤は盛装の準備がないと一度は断ったくらいだから、 日本側はロシアの車両に移動することは予期していなかった。その人物が腹心の狙撃手に、安の発砲と同時にシンクロさせて伊藤を撃てと命じることも可能であった、 という推理がなりたつ。一方、ロシアによる裁判によって真相が白日の下にさらされれば、好転しつつあった日露関係に重大な瑕疵をもたらしかねない。 もう一人の隠れた「暗殺計画者」はむしろそれを狙っていたのではないだろうか。 ロシア側はだから裁判に手を染めたくはなかったのだ、と私は推測する。
  おそらく日本側も真相がつまびらかにされることを必ずしも望んではいなかったと思われる。 日本政府筋は安重根裁判の証人や、結局日本人だけになった彼の弁護士、検事、判事などに裏から圧力をかけていたとみられる。 ロシア皇太子を警備中の警官が襲った大津事件の裁判とはちがって、司法の独立はもはやほとんど風化していたのではないだろうか。 私には判決にいたる経緯はどうみても出来レースのような気がしてならないのである。
  伊藤の体内に残った弾丸がフランス騎兵用カービン銃から発射されたものであったという説がある。 同行していた議員の室田義文が裁判での証言を翻して(公判では真実を語ることが出来ない事情があったらしい)、 死の直前にしたためた自伝書中に、駅舎の二階にあった食堂の窓から銃声がしたと書き残しているという。 命中した三発のうち一発の銃創が、右肩から左脇下に達していたということも、それを裏付けているという人もいる。 記念館に展示されていた図は「右肩から」とまでは言いにくいが、たしかにやや斜め上からのものである(写真1参照)。 したがって安重根が証言通りしゃがんで発砲したとしたら、どうもつじつまがあわない。だが、真実を究明するためには公判資料や解剖所見、 証拠物件の鑑定書など、すべてに当たらなければならない。 事件から百年以上もたった今となっては、とうてい無理であろう。

写真1

 ハルビンには日本と縁の深い博物館がもう一つある。 「侵華日軍731部隊罪証陳列館」である。私にとってハルビンは今回が二度目である。 前回はタクシー運転手にしきりに誘われたが、ついに訪れる決心がつかなかった。
  1945年8月9日、ソ連軍がヤルタ会談での密約に従ってソ満国境を越えて大挙侵入して来たとき、731部隊は短時間での徹底的な証拠隠滅をはかった。 日本人に広く見られる性癖だと思うのだが、状況が自分にとって決定的に不利になると、後世の人に知られないように関係資料を処分してしまう例があまりにも多い。 とりわけ軍人、外交官、高級官僚、政治家にこの傾向が目立つような気がする。 おそらく自分が自国と自国民の運命に関わる歴史過程での重大な行為に参加しているという自覚が乏しいからであろう。 後世の人たちは先人の過ちからも学ぶものであること、過ちの証をしっかり残すこともまた、 自国の歴史の継承性を担保するために守るべき義務であると考えるものは、残念ながらわが国にはほとんど見当たらない。 また、上位の人に累が及ばないように(その最高位は天皇)という配慮も、日本人の場合はほかの諸国民に比べて異様なまでに発達しているように思われる。 これは、ロシアの文書館を利用してみて、その違いを実感した体験で得た印象である。
  この「陳列館」は、731部隊が「飛ぶ鳥後を濁さず」とは正反対に、とうてい隠滅しきれぬまま汚損された証拠物件と、 生存者の貴重な証言(少数ながら部隊関係者のものも含め)によって客観的に「語らせる」という手法をとっている。 米国はどうやら、自分たちにはできなかった人体実験の「成果」を横取りするために、いわゆる司法取引の手段を講じたらしい。 それらが一定の時間を過ぎたため,米国の法律に従って開示されたことが(日本にはこの制度はないだろう)、 「陳列館」を全面改装して新しい展示方法を採用する動機になったようである。 見学した皆さんが異口同音に展示の仕方を肯定的な評価をしていたが、私も同感だった。 中国は世界記憶遺産の登録を目指すらしいが、きっと否決はされないだろうと思った。

綏芬河(スイフンガ)市

  総合保税倉庫と、そのインフラ設備を支える一連のシステムは見事であった。 1969年にソ連と中国の間で起こった領土をめぐる軍事衝突の時期でさえ、通関業務は一度も止まったことがないことを誇りにしていた。 国と国とを遮断する「国境」という線だけを見て考えるのではなく、その両側に広がる「境界地域」をまとまった生活圏として見る観点がいかに大事かということを、 あらためて知ることができた。ひと頃は町中にロシア人が溢れていたそうだが、ルーブルの下落と不況でロシア人の姿はまばらであった。 国境を渡ってロシアへ行く中国の列車は中国人観光客が多数を占め、少数のロシア人はどうやら個人業の担ぎ屋さんたちらしかった。 しかしこれも、経済状況が変われば逆転するかも知れないと思った。
  二つばかり博物館を見た。先に訪れたのは「綏芬河博物館」で、この地方の自然と歴史を説明した、 いわゆる「郷土博物館」である。これには「平和の天使ガーリャ記念館」と称する別館が併設されていた。 ガーリャは中国人の父とロシア人の母の間に生まれた娘さんで、日本語も話せたという。 綏芬河には一時各国領事館が軒を連ねていたそうで、満州全体にみられたように、ここにも日本人がかなり住んでいた。 ガーリャはその環境の中で日本語を覚えたらしい。ソ連軍が侵入した際、関東軍のある部隊が徹底抗戦してなかなか投降しなかった。 そこでガーリャを差し向けて日本語で投降を呼びかけさせた、ところがどうやら関東軍は彼女を殺害してしまったらしく、遺体も出てこなかったという。 私はソ連留学時代に聞かされたコムソモール員のパルチザン志願者だったゾーヤ・コスモデミヤンスカヤという少女の話を思い出した。 彼女も国民的英雄として崇められていた。ただしこれには異説もあって、今ではそのような英雄的事実はなかったともいわれている。 日本人旅行者はみな、ガーリャがなぜ「平和の天使」とされたのかが分からないと言っていた。 プーチンと習近平の大きな写真が出口の所にあったので(写真2参照)、私にはすとんと飲み込めた。 要するに中露が共通の新らしい「神話物語」を作ったということであろう。

写真2

  かつての東清鉄道幹部用の豪壮な建物を改造して設けた博物館があった。 「共産党秘密線」というプレートがかかっている。国際共産主義運動の司令塔(コミュンテルン)のあったモスクワとの連絡のため、 中国共産党の地下活動家達がスイフンガ・ルート(もうひとつはマンジューリ・ルート)でひそかに行き来していたことを示したものである。 私としては中国共産党史のなかで展開された熾烈な党内闘争と個々人のかかわりぐあいの顛末を知りたかったのだが、どうもよくわからなかった。 ロシアの作家アントン・チェーホフの写真があった。彼はブラゴヴェーシェンスクからハバロフスクへ抜け、アムール川を下ってサハリンへ行った。 帰りは海路セイロンを経てオデッサに戻ったのだから、スイフンガに立ち寄ったはずがないのである。 こちらも何だかよくわからなかった。

ウラジオストク(浦塩[潮]斯徳、海参崴)市

  男たちの間で海外雄飛のもてはやされた時代があった。しかし早くから実際に海を渡ったのは女性のほうが主流だった。 ウラジオ(以下、略してこう呼ぶ)も例外ではなかった。
  1860年の北京条約でこの地を獲得したロシアではあったが、冬期は港が凍結するので軍艦の停泊地を長崎港に求めた。 1855年に締結された日露和親条約がさいわいしたといえよう。 ロシア海軍の将兵は一冬を軍艦にこもってじっとしていたわけではない。 彼らは欲望を満たす場所を切実に求める。江戸時代の日本は他国に類をみないほど遊郭が発達していた。 「身売り」と呼ばれた一般的な年季奉公制度が娼婦リクルート・システムにも援用され、実質的な人身売買が合法化されていたので、 遊郭は公然とした存在になっていた。長崎の丸山遊郭は江戸の吉原、京の島原、尾張の中村にも決してひけをとらない繁栄を誇っていた。 一方ロシア帝国は極東地方にも公娼制度を行き渡らせており、定期的な性病検査を義務づけていた。 丸山遊郭の遊女達はそのような検査を拒んだので、ロシア海軍関係者は長崎の既存施設を利用できなかった。 すると稲佐の網元が地元の漁師の娘達を遊女に仕立てて衛生検査も受け入れさせ、ロシア海軍専用の娼家経営を始めたのである。 やがてロシア語の話せる娼婦集団が生まれた。
  ウラジオ港の氷が溶けるとロシアの軍艦は長崎を去る。 稲佐の娼家経営者はせっかくの独占的市場を失いたくないからロシア極東地方への営業地拡大を計った。 ロシア語の出来る娼婦達は有力な「商品」であった。 19世紀末になるとシベリア鉄道建設が始まったので、日本人娼婦達の営業拠点はウラジオを起点としてハバロフスクやニコラエススク、 ブラゴヴェーシェンスク、さらにはイルクーツクあたりのシベリア奥地まで拡大した。
  ウラジオには洗濯屋、食品や衣類、日用雑貨をあつかう各種商店、製粉業、精米業、写真屋など、主要なサーヴィス産業に日本人が進出していった。 やがて商社や銀行なども営業を開始し、ウラジオの中心街には日系企業が目立つようになった。 ウラジオ市の税金は表通りに面する間口に比例して算定された。営業する建物の前の道路の舗装や補修、清掃、除雪などの義務も負わされた。 日系の個人企業や会社は在浦塩日本人互助組織を作ったが、運営に必要な経費は、経営規模に応じて分担額を決めた。 娼家経営者は在浦塩日本人の間では社会的には低くみられる存在であったが、財力が勝っていたので、ことあるごとに応分の貢献を求められ、 またかれらもそれに応じた。 歴史文書館でウラジオの都市形成に関係する資料を探していて偶然知ったのだが、罹病した娼婦だけでなく、 ウラジオに住む日本人一般向けの診療所をウラジオ市内に開設する許可を得るために努力したのもこうした業者たちであった。
  ウラジオにはロシア人と日本人だけでなく、中国人や朝鮮人も離れた所に集落を形成して住んでいた。 肉類を扱う業者は主として中国人で、近隣地方から調達したものを都市部に持ち込んできた。 しかし屍肉や衛生上問題のある肉が運ばれてくるので、行政当局は監視の目を光らせていなければならなかった。 概して朝鮮人居住区は零細な農業従事者が多く、貧民街の様相を呈していたという。
  私とは古くから付き合いのある研究者で、ウラジオの歴史の隅々にまで精通している極東連邦大学のゾーヤ・モルグンさんに事前にメールを送って、 市内案内の手助けをお願いした。 現地の旅行社にとっては観光予定が狂わされて迷惑だったかも知れないが、結果的には道連れとなった皆さんに、 今では隠れて見えなくなっているウラジオという都市の残像に触れてもらえたのではないかと思っている。 阿片窟跡が日本人児童の通学路近くにあったなどということは、通り一遍の観光旅行ではなかなか知ることが出来なかったと思う。
  いまやペテルブルグのマリインスキー劇場系列のバレエ・オペラ劇場も出来ていて、かの有名な指揮者ゲルギエフの連続コンサートさえも催されるというから、 日本からだって簡単に行けるようになるだろう。そういう都市文化が拡大していって、かつての軍事上の閉鎖都市から国際都市へと変貌を遂げれば、 東アジアの輝ける都市のひとつとしてのウラジオの明日も現実味を帯びてくるではないだろうか。

ソウル市

  インチョンは立派なハブ空港だが、盛岡に住む私と黒岩には不便であった。 どうしても成田で余計な一泊をしなければならないからである。そこで私たちはソウルで宿泊することにした。 訪れたいところが三カ所あった。一つ目は岩下明裕さんが『入門 国境学』(中公新書)で紹介している「独島体験館」。 二つ目は「戦争記念館」、そして三つ目がソウルの日本大使館前にある「従軍慰安婦像」である。
  国境ツアーで対馬から釜山へ渡り、国際市場の広い街区をみんなで歩き廻って買い物をしていたとき(結局、眼鏡もお菓子も買わなかったが)、 電柱に「竹島」の写真があってハングル文字が書かれていたのを見つけて、声を出してひろい読みしていた。 すると近くの商店からアジュマ(韓国のおばさん)が出てきて、「ドクトはどっちの島だと思うか」と聞いてきた。 とっさに「ドクトは韓国の島」と答えたら、そのアジュマはにっこり笑って戻りかけた。私は続けて「竹島は日本の島」と言ったら、怒って店に引っ込んだ。 名古屋大学の池内敏さんの『竹島問題とは何か』(名古屋大学出版会)を読んでいたし、講演会でじかに話を聞いたこともあったので、 韓国の人とこの問題を論じるのは、たとえ言葉が通じたとしても不可能(彼らにとっては信仰みたいなものなので)だと言うことは分かっていた。 池内さんは日本と韓国の主張の正当性はたしか「五分五分」だと言っていたと記憶する。 ちなみに、釜山での私のやりとりは池内さんからの受け売りである。
  「体験館」はビルの地下にあって、表通りから広い円形階段を下ったところにあった。 これを作った「東北亞歴史財団」は同じビルの上階にあって、私たちは最初まちがってそちらへ入ってしまったが、親切に導いてくれた。 開館したばかりで客は誰もいなかった。日本語での案内も聞ける機器を貸してくれたが、入場料も貸出料もいらなかった。 そればかりか、帰りにはチョコレートでできた小さなふたつの島をのせたマドレーヌまでもらった。
  しかし展示コンセプトには大変問題が多いと思った。 第一、領土権を主張する論拠に体系性がなく、都合の良い「証拠」を羅列しているだけである。 この程度のものなら日本側も同じくらい提供できるだろう。 岩下さんが指摘するように「山師的な密航者にすぎない」安龍福(アンヨンボク)を英雄扱いするようでは、どうみても学問的議論には耐えられないだろう。 中国の場合もそうだが、古いほど権威があると思うのか、古文書や古地図を持ち出して決定的な「証拠物件」であるかのように主張するが、 領土の確定にそのようなものはほとんど意味が無い。 たとえば南・北大東島はロシア船籍の露米会社船舶ボロジノ号が1820年に発見し、緯度や経度を正確に測定して、海図にも載せた。 日露和親条約交渉のため来日したプチャーチンは1854年に、わざわざ僚船のヴォストーク号をボロジノ島に向かわせ、 植物や動物を採取させてロシアに持ちかえっている。しかし二つの島は日本の領土になっているのである。 このへんの理屈が分からないようでは領土問題を語る資格はない。 4Dテックニックを駆使した映像は子供の興味を惹きつけるには格好の手段だが、 反対に領土論争では将来の論客候補の理論的武装解除をしかねない危険性をはらんでいることを知るべきだと思った。
  戦争記念館には20年くらい前に訪れたことがあった。 その時の記憶では、植民地時代に抗日パルチザンの指揮官として活躍した金日成がたしかに紹介されていた。 今回訪れたのはそれを確かめたかったからである。
  やはりなかった。 あったのはほとんどが朝鮮戦争関連の展示である。 李舜臣将軍の亀甲船のレプリカや1587年につくられたという大砲などが陳列されてはいたが、解説らしい解説は見当たらなかった。
  朝鮮戦争に関しては仁川上陸作戦を体験できる4Dの映像館をはじめ、当時の映像をリアルに体験できるコーナーがあちこちにあったが、 それでは朝鮮戦争とはいったい何であったのかという、肝心の総括がなされていない。 いまだ休戦中だからというのは、言い訳にならない。 膨大な数の兵器を並べ、戦闘シーンを次から次へ見せたところで、武器フェチやゲーム感覚でしか戦争を想像できない子供達を量産するだけである。 出口階の壁に貼られた子供達の感想メモを見てそう思った。
  進んでゆくと、韓国軍のベトナム派遣についての展示が目にとまった。 かつて済州島でタクシーに乗ったとき、運転手が自分はベトナム帰還兵だと話してくれた。 たどたどしいがはっきり分かる日本語で自分たちがどれほど残虐なことをしたかを赤裸々に語ってくれた。 あとになって、あれはおそらく長い間精神的なトラウマに悩まされ、同世代の私に出会ってカミングアウトしたのではないかと思った。 おどろいたことに、そのコーナーのあと韓国軍の国連平和維持活動の例が次々に出てきた。 本当に、これで良いのだろうか。ベトナム派兵は韓国にとって「平和維持活動」の一環だったのだろうか。
  都心にある支庁(シジャン)近くのホテルから日本大使館までは歩いて行った。 慰安婦像はすぐに見つかったが、何か異様なことになっていた。 大使館の建物は優に4メートルくらいはありそうな白塗りのボードで一面覆われ、その前にビールケースで作られた縁台のようなものの上に見張りの若者が二人座っていた。 反対車線には警察のバスが数台停車し、警官がじっと警戒の視線を向けていた。 白い壁には色々なスローガンが大書してあり、メッセージを書いた黄色い丸まった蝶の形をした小さな紙切れが無数貼ってある。 支援者が来て、用意された紙片に自分の意見を書いて貼っていったものだろう。(写真3、4参照)


写真3

写真4

  朴裕河さんの『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を読んだが,この本の韓国語版は今名誉毀損で訴えられ、裁判が進行中のはずである。 私は慰安婦の実際の姿と、それが生まれた背景について予断を持たずに追求したしっかりした学術書だと思うのだが、 どうなることか。撤去を拒まれている慰安婦は少女の面影を残していおり、このいたいけな彼女が日本の兵隊達によって日夜性的暴力にさいなまれていたとすれば、 たしかに罪深いことである。朴裕河さんはたしかに、そんな慰安婦イメージとは違った姿を提示しているが、 被害の実態を軽減しようとか歪めようとかしているわけではないと理解している。

  だが問題は、どちらがより真実に近いかを論ずることではなく、どうすれば解決の道に近づくことができるか、と言う段階にきているように思う。 おそらく当事者の全員がそれでいいという答えは見つからないであろう。一人でも多くの人が「しょうがない」といえる線で妥協するしか出口はなさそうな気がする。 ただこれは韓国的な思考様式をもっとも逆撫でる「便法」であることは否めないが。

  中露国境紀行がこういう形で終わって、自分にはさらなる宿題できてしまった感がしてならない。答えを求めて、また旅に出るとするか。

[2016.9.26]


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