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八重山の台湾、台湾の八重山 -2つの地域の人と文化の交流を探す旅 - [pdf版]
田村慶子(北九州市立大学、国境地域研究センター理事)
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四方を海に囲まれた島国にずっと住んでいると、「国境は動かしがたい壁。国境を隔てた隣の国は全く 異文化・異民族の世界で、海を越えてやってくるのは海賊くらい」などとつい思ってしまう。そんな単 純だが、多くの日本人がぼんやりと抱いている国境のイメージを大きく覆すことができる旅、それがボ ーダーツーリズムである。
今回の旅は、八重山と台湾北部の台北と基隆。2 つの地域の人の往来の歴史と共通の文化を探しに国境 を跨いだのは、学術関係者やジャーナリスト、元自治体職員など 11 人。4 泊 5 日の旅だというのに、荷 物は小さなキャリーバック 1 つだけという人もいて、旅慣れ た強者たちが集まった。『地球の歩き方』の旅はとっくに卒業 したというようなユニークな面々に会えるのも、ボーダーツ ーリズムのおもしろさである。
まず、早朝の飛行機で福岡から石垣へ。年間 10 万人の台湾人観光客が訪れる石垣島には、巨大な台湾クルーズ船が寄港できる港がある。 私たちが到着したときは、ちょうど高層ホテルのような大型クルーズ船が停泊中で、中から次々と台湾人が下りてきた。 決して「お金持ち風の台湾人」ではなく、Tシャツとカジュアル・パンツの若いカップルや家族連れ、 車いすのおばあさんに寄り添う親孝行の娘さんという、台北の街角からそのまま出てきたような普通の人々が石垣の街をめざして散っていた。 台湾人観光客の目当ては、川平(カビラ)湾などの観光名勝もさることながら、石垣島各地にひっそりと佇む寺院と石垣牛なのだという。 それはリピーターが多く、すでに主な観光地は回ってしまったためで、最近はタクシーをチャーターしたり、 徒歩で歩き回ったりする人が多く、大型観光バス利用者は減っているという。3 日間ほどのクルーズ料金は、 日本円で 5 万円(最も安い客室)ほどとかなり安い。 台湾人にとって石垣島は、「普段着で行ける気軽な日本」になっているようだ。
嵩本さんが 2 歳の時に台北に家族で引っ越し、建成国民学校に入学した。 この小学校が立つ建成町や、嵩本さんが住んだ上奎(かみけふ)町は台北駅のすぐ北側で、 八重山など沖縄出身者が多く暮らした地域であったという。 国民学校は赤レンガを使った堂々とした佇まいの校舎で、日本がいかに台湾植民地統治に力を入れていたかを物語っている。 なお、この学校は現在「台北当代芸術館」として使われていて、わたしたちは台北で芸術館にも足を延ばし、 嵩本さんの学んだ当時に思いをはせた。
嵩本さんの穏やかな少年時代は長く続かず、台北も 1944年 10 月からアメリカによる本格的な空爆を受けるようにな
った。空襲を逃れるために台北市北部の天母(現在は高級住宅が並ぶオシャレな地域)とさらに台中に疎開、天母でも台
中でも近所の台湾人農家にとても親切にしてもらったという。「食べ物がない私たちに芋を手渡してくれたり、空腹の
ために眠れない赤ん坊には夜食を運んできてくれました。私たちは台湾人のおかげで生き延びたようなものです」。
終戦後、嵩本さん一家は汽車で台北に戻った後、基隆にある和平島(当時は社寮島)から船で石垣に引き上げた。
石垣も壊滅的な被害を受けたと聞いていたため、お母さまは皿やさじなどの食器類からみそがめ、せいろまで、台
湾で使っていたほとんどすべての生活用品を持って帰った。台湾からの品々は、嵩本さん一家の戦後の暮らしを支えたのである。
なお、わたしたちは台北で台北総統府と和平島も訪問、嵩本さん一家が船で日本に引き上げた和平島には、 小船の上にモリを持って立つ琉球漁民慰霊碑があった。
沖縄の漁民たちはモリで魚を突くという、 台湾では馴染みのないやり方で基隆の沖で魚を取っていた。 沖縄漁民のなかには台湾人に魚の取り方を教えた人もいたという。嵩本さん一家のようないわばサラリーマン一 家であろうと漁民であろうと、沖縄の人々にとって当時の台湾北部は生活圏であった。
もうお1人、八重山と台湾の交流を教えてくださったのは、やはり石垣に住む台湾人二世の島本哲男さん。 お父さまは戦前に一度、戦後さらにもう一度石垣にやってきて、石垣で知り合った台湾人女性と結婚、3人の子どもを授かった。
お父さまとお母さまは子どもたちのために懸命にサトウキビ農園で働いたが、16歳の時にお父さまが急逝されてしまい、 お母さまは毎日早朝から遅くまで畑に出て働いたという。島本さんも高校進学をあきらめてサトウキビ畑で懸命に汗を流した。 「サトウキビのカッターで親指を切り落としてしまいました。必死で指を探し出して何とかくっつけたのですが、 慌てて付けたのでこんなふうに少し指が曲がっています」と、島本さんは親指をさすりながら若い頃の苦労を笑顔で話してくださった。 やがてパイン栽培に成功、パインよりも高値で取引できるマンゴー栽培にも着手し、 現在は一戸建ての大きな自宅でお子さんやお孫さんに囲まれた生活を送っている。
「父と母は台湾の話をほとんどしてくれませんでした。きっと貧しくてつらい思い出しかないのでしょう」 「でも自分は台湾が大好きで、毎年収穫が終わる頃に出かけます。親戚一同が大歓迎してくれます」。 ただ、「親戚が使っている台湾語には標準中国語(北京語)が混ざっていて、 自分が小さい頃から使っている台湾語は通じないときがあるのですよ」と島本さんは笑った。 でも、「言葉は十分に通じなくても親戚との交流はこれからも大事にしたい」。
日本で生まれた島本さんは台湾を知らずに育った。でも、台湾は16歳の時に亡くなった父の、
リューマチで苦しみながらも必死で働いて自分たちを育ててくれた母の故郷であり、自分のルーツである。
石垣に根を下ろしながらも、ルーツを大切にする二世の熱い想いを感じたひとときであった。
ところで、パイン栽培を石垣に伝えたのは台湾人である。1935年に林発氏らが台湾から石垣にパインを持ち込み、栽培を行った。
戦争の激化によってパイン畑は軍に接収されてパイン栽培もパイン缶詰の製造は中止を余儀なくされ、林氏らは台湾に戻った。
戦後に再び石垣に戻った林氏は、山に残っていたパインの苗を見つけて栽培を行い、その後パインは石垣を代表する特産品になった。
彼らの努力を顕彰した立派な碑が、石垣の名蔵地区に建てられている。
石垣にある台湾人のお墓も紹介したい。
台湾人墓地は、八重山で亡くなった台湾人のために、台湾人出身者が土地を購入し、1969年に中華民国政府の資金援助で建てられた。
「台湾同郷之公墓」(写真)の背後にあるピンク色の丸い小さなお堂には無縁仏が収められている。
一般的に華人の墓は夫婦あるいは個人単位であるが、沖縄の台湾人墓地は「朝吹家の墓」(写真)のように、家族単位である。 いつごろから日本式の家族墓石になったのかわからないが、石垣にやってきて日本的な風俗習慣を取り入れた台湾人の生活を垣間見た気がした。
宇多良炭鉱の萬骨碑とトロッコ線路跡 |
もっとも、西表島の宇多良(うたら)炭鉱のように、八重山には台湾との交流の「負の歴史」もある。 宇多良炭鉱は、1886年から開発が始まった西表島西部一帯の炭鉱のなかで最も大きな炭鉱の1つで、 2階建ての独身寮、一戸建ての夫婦宿舎、300人収容の集会所兼芝居小屋、医務室まで備え、1938年には月産2500トンを産出していた。 ただ、給与はここでしか使えない「炭鉱切符」と呼ばれた金券で支払われ、日常物資はこの金券で支払うという巧妙な仕組みのため、 坑夫はほぼ奴隷状態に置かれていると言っても過言ではなかった。またこの一帯はマラリアの有病地帯のため、常にマラリアとの戦いも余儀なくされた。 坑夫のなかには台湾から出稼ぎあるいは連れてこられた台湾人も多かったという。奴隷状態から抜け出すために逃亡を試みたが、 ジャングルのなかで道に迷い、そのまま息絶えた者も多かった。写真は、わずかに残るトロッコ線路跡と、ここで朽ち果てた坑夫のための萬骨碑である。
4泊5日の旅はかなりのハードな日程であったが、八重山と台湾の国境をやすやすと超えて八重山と台湾の2つの地域に生きた人々の知恵と勇気、 悲しみ、台湾に残る八重山、八重山に残る台湾をわたしたちに実感させてくれる貴重な旅となった。
[2016.6.14] 掲載