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「樺太」から70年目のサハリン            鈴木 仁  

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はじめに
 終戦70年をむかえた2015年9月、サハリン国境ツアーに参加し、かつて日本領であった南樺太各地を巡った。サハリンへの旅行は、2003年に旧樺太庁博物館の調査団に同行して以来であった。その時のフェリーでは、故郷での慰霊に向かう元住民の方々がいた。宿泊施設に向かうバスでは、戦後、樺太に残った日本人の婦人たちが通訳の補助として同行しており、元住民の方たちとの昔話で互いの知人の名前が出ると、引揚げ先やサハリンでのそれぞれの苦労を語っていた。
 その後、私は引揚者の福利厚生を目的に設立された社団法人全国樺太連盟に、資料館を作る仕事で3年間ほど勤めた。その作業の中では調査だけでなく、元住民の思い出を茶飲み話としても聞いていた。このときの経験が、大学院の社会人学生となって日本時代の樺太の歴史を研究することにつながっている。石油・ガス開発でのサハリンの変容は研究者の話で聞いていたが、再訪する機会のないまま、戦前の資料を見て過ごしていた。
 サハリン国境ツアーには、経済的な理由もあるが、開発が進んだこの地を見ることに躊躇していた。それでもかつての国境は、近代樺太の歴史の始まりと終わりを意味しており、その場に立ってみたくなった。
 以下は旅行中の感想を綴ったものである。日付順ではなく、取り上げた見学場所も一部であり、ツアーを再現するものではないが、サハリンで「樺太」を考えていた話としてお伝えしたい。また、ガイドの方、参加者の皆さんとは楽しい時間を共有できただけでなく、碑文の解読やロシアの歴史・文化など、語学に疎い筆者の理解を助けていただいた。感謝とともに、個人的な思いを綴った本稿での割愛をお許しいただきたい。

日本人慰霊碑
 このツアーで感慨深かったのは、サハリンでの最初の見学が、ユジノサハリンスク(旧名豊原市、以下同)の墓地にある日本人慰霊碑への献花から始まったことだった。ツアー会社のエムオーツリストは、シベリア抑留者の墓地への慰霊ツアーを手掛けているため、こうしたプログラムが用意できたという。
 墓地の入口から日本人の慰霊碑に向かうまでに、ロシア人、朝鮮人の墓が並んでいる。墓碑には個人の肖像が描かれ、ソ連の赤い星の装飾やハングル文字などが、この地に生きた人々の生涯を表していた。
 戦後建立された日本人慰霊碑には、かつての日本人の墓碑も並べられていた。欠けた壁面には、大正・昭和初期に亡くなった人の戒名も読める。石碑の下に眠る人はいなくとも、ツアー参加者は一人ずつ花を置くと、自然と手を合わせた。
 このツアーでは、日本人の慰霊碑だけではなく、朝鮮人の慰霊碑にも訪れた。2基とも日本人による加害の歴史(上敷香、瑞穂村での虐殺)を刻んでいる。

国境標石の跡とトーチカ
 北緯50度のソ連との国境線を示す国境標石は、鬱蒼とした林の中にあった。標石は失われ、土台が残るだけだが、由来を示す看板などないので、欠けた石のブロックが座り込んでいるようである。戦前の写真を見ると、国境標石の周囲は切り開かれており、シンボルとしての存在感が伝わってくる。

国境標石の土台 戦前の国境標石(1930)

 この国境標石の辺りは、ソ連との関係が悪化する1938年まで観光地であった。今、ここに着くまでの国境線以南の道路脇には、ソ連軍の部隊や兵士個人の名を刻んだ様々な碑が建てられていた。それらを眺め、雨に打たれる中で国境の跡に立っていると気が重くなった。と言って早々に立ち去りたくもなく、ここからソ連に亡命した岡田嘉子の話や、冷たくなった土台を撫で、苔を払ったりして過ごしていた。
 帰路、ソ連軍の顕彰碑や日ソ合同の慰霊碑を見学した。1945年8月9日からの国境付近での戦闘について、日本軍の痕跡を示すものとしてトーチカが残されている。かつて訪れた人の話では保存もされず荒れ果てた状態と聞いていたが、行ってみると周辺が公園の芝のように刈られ、トーチカ間を結ぶ塹壕が復元されていた。ガイドさんの話によると、9月5日の戦勝記念行事で戦闘を再現したイベントがあったという。トーチカの中は小さな窓(銃眼)からの光が差しても薄暗く、そこから外を覗くと、芝生のような原野が見えた。 この施設は南下するソ連軍を追い返すための基地ではなく、時間を稼ぐための防備にすぎない。勝利のないこの場所で、同じように小さな窓を覗いていた兵士がいたと思うと、いたたまれない気持ちになった。
 後日、ツアーは炭鉱町のシネゴルスク(川上村)の公民館内の博物館を見学するが、そこに児童が紙粘土で作った国境での戦闘のジオラマがあった。戦勝記念行事にはこの町の学校からもバスで向かい、摸擬戦を見学しており、児童の作品はそれを表しているという。塹壕から黄土色の絵の具で塗られた日本兵2人と、倒れているのか匍匐前進しているのかはわからないがソ連兵が近くに置かれていた。冷たいコンクリートのトーチカとは対照的に、子供が作る人形や塹壕は丸みを帯びて厚ぼったく明るい色彩であった。

博物館の日本時代コーナー
 ユジノサハリンスク(豊原市)にあるサハリン州郷土博物館は、昭和12年に建てられた樺太庁博物館の建物や資料を引き継いだ施設である。2003年に来たときは前庭の木々が茂り、帝冠様式とよばれる天守閣のような特徴的な建物を写真に撮ろうとすると、山城のように写っていた。今は日本の援助により建物は補修され、日本時代には前庭だけだった敷地も館の周辺に広げられ、噴水が再現されている。入館料は館内だけなので、庭園となった敷地内は、小さな子を連れた女性たちや老夫婦が憩いの場所として集っている。 館内の展示は、1945年以降の歴史資料が多くなっており、その分、日本時代の展示が縮小されたようである。ソ連時代がすでに歴史となったことや、サハリンプロジェクトを機とする発展が同時代でも歴史的な事象であるため、展示スペースの都合上、サハリン州にとって異質な時代が追われたように思われた。
 日本時代の展示は5メートルほどのブースに集約されており、国境標石(戦前の模型)、橋の欄干、寺の鐘、土瓶、算盤、生活道具が並べられている。かつてこの島に集団で居住していた「日本人」がどのような生活文化を持っていたのかはわかるが、40年の間にどのような歴史を築いたのかは伝えられていないようである。それでも動植物の標本は日本時代の博物館で制作されたものであり、考古・先住民族の展示も設備がリニューアルされてはいるが、展示品や復元図の絵画も樺太庁博物館の写真にあるものであった。
 ここの他にも各地で博物館を見る機会があり、ここでも採取された生活道具が並んでいたが、北海道の郷土資料館の「昔の暮らし」コーナーで見るような内容であった。

ホルムスク(真岡町)
 ユジノサハリンスクからホルムスクに向かう途中、峠を越える。日本時代に熊笹峠と呼ばれたこの場所は、終戦後も続く日ソ戦の激戦地であった。戦車を掲げる「戦勝記念碑」には、ファシストからサハリン・クリルを解放したことが謳われている。ほとんどが地中に埋まった日本軍のトーチカ跡から眺めると、西岸の海と山間にホルムスクの市街がわずかに見えた。
 この峠に降りたとき、一度来たような錯覚を感じていた。それは10年余も前に、様似町の友人の家に泊まったとき、その祖父から伺った戦争体験を思い出していたのだった。真岡から峠を登って迫るソ連軍を待ち構えたときの情景が、聞いていたとおりであった。急な部隊編成のため、苗字しか知らないまま戦死してしまった「戦友」は、樺太の出身とだけ聞いていたという。
 ホルムスク市街地では、戦後に建てられた「鎮魂の碑」への献花があり、旧王子製紙工場や旧真岡郵便局跡も訪れた。高台のアパートに囲まれた木陰の「鎮魂の碑」や、そびえ立つ廃墟の製紙工場とは違い、旧真岡郵便局跡はL字型のビルが建ち、平屋の本館庁舎があった場所は小さな広場になっていた。
 1945年8月20日、ソ連軍の真岡上陸での戦闘中、真岡郵便局の電話交換手の女性たちが自決を図り9名が亡くなった。ソ連占領後も建物の機能が引き継がれ、郵便局として利用されていた。そのため今のビルになってからも、その一角に郵便局が設けられている。 ちょうどその場所が、事件の起きた2階建ての別館跡であった。
 稚内公園には、慰霊碑の「殉職九人の乙女の碑」が建立されているが、現場となったこの場所には何もない。その何もない広場を、私たちは写真に収めていた。

ユジノサハリンスク(豊原市)
 国境線の跡地があるポロナイスク(敷香町)やシネゴルスク(川上村)からユジノサハリンスクに戻ると、都市の賑やかさに安心する。サハリン州全体の人口は減少しているが、ユジノサハリンスクに人口が集中しており、住宅地は日本時代を基礎とした市街地では足りず、郊外に広がっている。シネゴルスクの炭鉱が閉山したとき、行政の手が回らないため、住民の多くがユジノサハリンスクの新たな住宅地に移されたという。
 市街地南部も新興住宅地として開発中だが、建築中のタワーマンションの塀に貼られた完成予想図には、市街地中心部とはまったく別の雰囲気の高級住宅街が描かれていた。その先には大型商業施設の「シティモール」があり、ツアー終盤に案内された。高価な装飾品店やレストラン、映画館が入っている最新の商業空間は、今日まで見てきた「サハリン」のイメージを一変させる世界だった。
 ここには日本時代、大沢という豊原市郊外の農村集落があり、私の祖母とその兄弟たちが暮らした場所だった。休みの日には自転車に乗って豊原の町に映画を見に行ったという思い出話のとおり、市街からちょうどいい距離の場所であった。ソ連軍が侵攻し、緊急疎開で村を離れるとき、曾祖母は子供たちに「ここはもうよその国の土地になるから、持てるだけとっていきなさい」と言い、まだ十分な実りのない作物を畑から持たせという。その畑も、シティモールや広大な駐車場の下にあるかと思うと、国家の移り変わりだけでなく、経済による土地への影響に驚かされる。

終わりに
 帰国前日、ユジノサハリンスクの市街地を1日中、散歩していた。夕方、美術館(旧北海道拓殖銀行豊原支店)の前のバス停で乗り降りする人たちを眺めていると、どこにでもある普通の日常があった。チェーホフ像の周りで鬼ごっこ(?)をする子供たちや、映画館の前で待ち合わせしている青年たちのグループも、見学してきた墓碑や記念碑に刻まれた人々のようにサハリンの歴史を作っていくのだろう。シティモールができる一方で、新たにロシア正教の教会がいくつも建てられており、風景はこれからも変わっていく。
 サハリンには中央アジアからの移民が多く、ツアーのバスの運転手もカザフスタンから来たという。世代を経れば、大陸ロシアの縮図のような多民族・多文化の社会となるだろう。歴史が積み重なっていくと、現地では日本時代がますます遠ざかっていく。樺太の記憶は、日本で伝えていかなければならないという思いが募った。


[2015.12.15]


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