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Essays

はずみで参加したサハリン国境紀行

      

大須賀 みか

 ある夏の終わりかけの日、時々送られる『Border Studiesメールレター』に「稚内・サハリン国境観光:北緯50度線を見る 好評発売中!」という一文を見つけた。
 気がついたら申し込みの電話をしたあとだった。
 わが家では3年前、家族4人で初めてヨーロッパ旅行を楽しみ、2015年には、ぜひロシアのサンクトペテルブルクに行こうね、と言っていた。 ところがいざ今年になると、ハイティーンの子ども達はそれぞれ夏休みも忙しく、ロシア旅行はお流れに。しかたないなと一旦あきらめた私だ。

 独身の時はたびたびソ連・ロシアを訪れていたが、結婚・子育てで忙しくなり、気がつけばかの国の地を踏まずに20年が過ぎていた。 サハリンでは荘厳な正教会も絢爛たる宮殿も望めなさそうだが、時差は1時間だし近いし、とにかく、ロシア国籍の人たちがロシア語を話しているだろう。 というわけでその「サハリン国境観光」なるものの、約1週間の旅程も意義も何も読まずに出発の日を待った。

 稚内で集合。空港には他のツアー団体もいくつか集合していたが、われわれ十数人の一行は、明らかに異彩を放っているようだ。メモを取りまくる新聞記者、「はじっこが大好きなの」と嬉しそうな一見普通のご婦人、にこやかながら眼光鋭い大学教授たち、 感無量というおもむきの日本史専攻の大学院生、そして今も謎の男3人組他。私は一行の中ではいささか場違いなようだ。
 稚内では市の職員がバスでガイドしてくれる歓待ぶりで驚いた。札幌から参加した私から見てもどことなく日本離れしたところだ。 宗谷公園には神社やお墓があり奥まったところに小さめの間宮林蔵の胸像があった。間宮林蔵ってなにをした人だっけ。あ、そうか間宮海峡を発見した人?  ロシア語では間宮海峡をタタール海峡(Татарский пролив)と呼ぶことをこの旅行で改めて知り、 「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。」という有名で不可解で印象的な詩を突如思い出した。

 稚内で一番印象的だったのは、ホテルの朝食バイキングで浴衣を着たまま大きい納豆のパックを二つもご飯にかけて食べていたロシア人の巨漢。 これを「境界」のシンボルと言わずにいられようか。

 さて、稚内からフェリーに乗ったらコルサコフまで4、5時間か、あっという間かなと、軽い気持ちで乗船したら、 待っていたのは… 強い低気圧の影響で木の葉のように波間を進まざるをえなくなった船、そしてロシア人も日本人もなすすべもなくじっと耐える姿。私はずっと前にも台風のせいで激しく揺れる船(ナホトカ-新潟)に乗った経験があり、 とにかくじっと横になっていればひどい船酔いにはならないと経験していたので、今回も同じように横になっていた。 そのうちフワッと船が持ち上がったときに息を吸い、グーンと底に引き込まれる感じになったときに息をフーと吐けばよりラクなことに気が付いた。 それをやっているうちに十数年前にも似たようなことをしたのを思い出した。陣痛に合わせてヒー・フー、出産だ!

 殆どの人が死んだように動かなくなっていたときに、約2名、元気に会話している人がいた。 K教授と今回の主催者でスラブ研のI教授だ。楽しそうに窓の外をみて「すごい」と言ったり、お弁当を食べて 「うん、いい味付けだ」と言ったり。 毎夕食時にウォッカなどを飲んでいた参加者は何人かいたが、この2人は、確かめたわけではないが、 夕食後も同室の部屋で飲みつつ語り合っていたのではないかな。そして毎朝、二日酔いの気配もなく元気そのもので起きてきた。 まさに、鋼鉄の肝臓だ。

 さて、ついにサハリンの州都、ユジノサハリンスクに着いた。 駅前の公園には大きいレーニンの立像があり、コミュニスト通りという名前の通りがあって、 なんかソ連時代から変わっていないな、と思ったが、泊まったサハリン・サッポロホテルは設備が整って清潔だった。 ここを起点にサハリンを北上し、またもとに戻ることになる。

跡:日本領時代には、いくつもの神社が建てられたそうだ。北海道でも開拓時代、ある地域を一通り開拓するとそこに神社が建立されたと聞いたことがある。国家神道の時代の政治・宗教的な意味のほかに、地域のコミュニティセンターとしての役割もあったのではないかと推測するが、よくわからない。いくつかの神社の「跡」を見て回った。「ここの…が神社の…でした。」とガイドさんが日本語で説明してくれるのだが、正直何が何だか分からなくて困惑した。唯一私に分かったのは建物も鳥居もないのになぜか狛犬のペアだけが残り、律儀に「あ・うん」の形をしていたものだ。ちなみにロシア人の中にもこの狛犬が好きな人がいるらしく、レストランか何かの入り口に狛犬のペアを飾っているのを見かけた。

台座(または台座の跡):ポロナイスクから色々な碑を見学しつつ北上し、北緯50度、かつての日露の国境の、 いくつかあった標石の台座の跡の一つを見学した。スラブ研には菊の紋章つきの国境標石のレプリカが意味ありげに置いてある。 ああ、この苔むして原型をとどめないものに、あのレプリカが載っていたんだな、と特に感慨もなく見ていた。 ところが、同行者たちの異常なはしゃぎぶりには驚いた。台座の跡をまたいだり、 ポーズを取ったりしてそれぞれが写真に納まって興奮している。おそらく私などと違って、 サハリンの歴史について実感をともなって知っているからこその興奮ぶりなのだろう。

廃墟:あちこちで製紙工場の廃墟を見た。大きな廃墟の存在感が私を圧倒する。筆では表現しがたい。 これぞ日本ではまず見られないものだろう。 日本では最近「空き家問題」が注目されており、周囲に危険を及ぼしかねない建物で、 持ち主の不明なものは自治体がお金を出して取り壊したりしている。じゃあサハリンのこの廃墟はどうなのか。 「危険」と書いた看板はみあたらないし、フェンスで囲んだりもしていない。誰かが興味をもってのぼったり、 こどもが入って遊んだりして、足を踏み外し、それが軽いケガですめばいいが…「ロシア」は頭ではわからない (いや、逆に日本人の安全意識のレベルが他国より高いのだろうか)。

 今回の旅行では、できたら日本では手に入らないロシア語のついたTシャツを買いたいと思った。 ところが、ユジノサハリンスクの大きなスーパーの衣料品店を見て回っても見当たらない。 あるのは英語のTシャツばかりだ。「そうか、日本でも漢字のTシャツはマイナーだし、ロシアでも同じかな。」 とあきらめかけていたところ、ある露店で偶然発見! しかも綿100%で着心地もよさそうだ。 自分にはロシア語で「わたしはロシアが好きだ」「私はきみが好きだ」と書いてある2枚を買い、 もう1枚「私は自分の妻が好きだ」と書いてあるものを夫のお土産にした。 来年の夏、札幌西区の住宅街で「私は自分の妻が好きだ」と大きく書かれた半袖Tシャツを着、覇気のない足取りで歩くオヤジがいたら、それは私の夫である。

 楽しい旅だった。一番よかったのは、最初には「異彩を放った一行」だと思った同行の皆さんとの、とても楽しく刺激的な会話。ガイドの方たちにもとてもよくしていただき、貴重な体験となった。

[2015.12.15]


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