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「オンリー・ワン」というボーダー・竹富の島々にて
  —くにざかい(国境)をゆく(6)—

竹内 陽一(JCBS理事)

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石垣市美崎町にある竹富町役場

 35年ほど前、はじめて石垣島を訪れたときのことだ。離島桟橋のあたりを散策中に「竹富町役場」の看板をみつけ、一瞬足が止まった。最初は竹富町の飛び地かと思ったが、ここは今も昔も、れっきとした石垣市の行政区域だ。

 八重山の島々は1914年、それまでひとくくりだった八重山村から石垣、与那国、そして竹富へ、それぞれ単独自治体として分離した。 竹富村は16の有人・無人島から構成され、当初は竹富島に村役場が置かれたが、島間の往来が不便で、満足な住民サービスができず、(この時代、こんな言葉・精神があったかどうかは疑わしいが)結局、1938年に島々への航路が集約される石垣の離島桟橋の近くに村役場が置かれた。 現在、村の職員はおよそ200人、このうち竹富町役場に勤務する130人は、出身地は竹富の人が多いが、今は全員が石垣市民だ。

 こうした行政区域外に役場を置かざるをえない自治体は全国1700あまりの市町村のうち3町村、残る2自治体は鹿児島の南の海域に点在する三島村と十島村で、竹富町同様、いずれも村役場は鹿児島港のフェリー岸壁近くに置かれている。

 「竹富の島々はそれぞれに歴史、伝承、文化を育んだオンリーワンの島。この個性ある島々を守り、後世に残すことが私たちの務め」こう明快に語る川満栄長町長は竹富島に住民票を持つ町民の一人だ。 平成の大合併のころには議員として石垣市との合併に強く反対し、島々を橋で結ぼうとする構想にも、サンゴ礁やリーフが破壊されるとして声を上げた。

 沖縄県の中でも、もっとも南にある竹富の島々はその歴史を紐解くと、琉球王朝に組み込まれる以前から進取の気性と独立心を育んできたことが伺える。

 直近でいえば、平成の大合併の嵐を乗り切り、教科書問題では、口先だけは地方分権といいながら不条理な枠組みを押し付けてくる中央(民主党政権時代を含め)と対峙してきた。冷静に二つの教科書を読み比べれば、その根幹は「左だ、右だ」という議論ではない。マスコミがその事象だけを対立構図的に、政治的に取り上げた感は否めない。


 
 

新庁舎構想を語る川満栄長・竹富町長

 その竹富町で、ここ数十年来、常に町長選挙や議員選挙の争点になってきたのが役場庁舎問題だ。現在、「新庁舎建設のあり方検討有識者委員会」が設けられ、調査検討が進められている。委員会の名称だけを聞くと、古くなった役場を建て替えるの?と思うかもしれないが、実はそうではない。

 川満町長はこの行政上の重要課題についてきっぱりと言い切る。「昔と比べ今は島間のフェリーの行き来がある程度、確保できるようになった。竹富の島々の中で、町民が半数以上暮らす西表島に役場を移したいと考えています。それによって町民への行政サービスも、これまで以上にきめ細かく対応できる。すでに大原地区に用地も確保しているんですよ。」 表情から行政区域外役場から脱却し、なんとしても竹富町内に庁舎を、という思いが伝わってくる。

 その西表島へ。大原地区の新庁舎建設予定地を見ながら、島を巡る。昭和30年代以前、西表島は人の住めない島と言われた。マラリアによって開発が遅れ、結果的にそれが貴重な自然を残した。マラリアが撲滅された今、竹富町の人口の56%、2,300人余りが西表島に暮らし、訪れる観光客は年間40万人を超えるようになった。 それでも島を一周することはできない。道路は白浜までだ。


かつて炭坑があった西表島北西部

マングローブが続く人気の浦内川クルーズ

旧祖納に伝わる伝統芸能

内離島の旧西表炭坑坑口

 もっとも島の北西地域は、15世紀には豪族によって集落が開かれ、この辺りを祖納(そない)と呼んでいた記録がある。19世紀末には西表炭坑(総称)が置かれたが、半ば強制的な炭坑労働は過酷を極め、脱走してもマラリアに倒れ、犠牲者が相次いだという。

 白浜から小さな連絡船に乗って内離島(うちばなりじま)の炭坑跡に立ち寄ったあと、陸の孤島・舟浮(ふなうき)に着いた。この地域に暮らす人々は40人、舟浮小中学校以外はこれといった施設は見当たらないが、戦時中の防空壕や弾薬庫跡が残っている。

 地の果てブームの影響か、こうした陸の孤島にも最近は結構、訪れる人が多いのだろう。 岸壁の目の前に食堂らしき店が2軒並んでいるが、今日は閉じているようだ。海岸で散歩している地元の婦人に出会った。

 漢那(かんな)スエコさん、昭和6年、舟浮で生まれ育ち、少女期、舟浮で戦火をくくり抜け、女学校時代1学期だけ石垣島で暮らしたが、勉強どころでなく飛行場の清掃奉仕作業に追われたという。戦後、対岸の白浜(祖納)に嫁いだ。学校の用務員として、さらに東京に出て30年近く家政婦として働いたが、ふるさと舟浮に戻ってきた。


陸の孤島・舟浮地区

舟浮で生まれ育った 漢那スエコさん

「やはり老後は故郷が良いですか?」
「い~や、交通が不便で住みずらいですよ。その上、空き家だらけ。病気になって入退院を繰り返しているけど、石垣島への通院が大変でね、今は娘や息子に交互に来て面倒見てもらっているんだよ」
「でも、舟浮を出ようとしない?」
「ここで亡くなった父親とは折り合いが悪かったけど、ご先祖様には罪はないからね。墓守だよ。これが沖縄のしきたり、私も舟浮で最後まで暮らすよ」
 80年余りの年輪を刻んだ漢那さんの表情がようやく和んだように見えた。

 黒島に向かう。この辺りの海の青さと輝きは表現のしようがない。「黒島ブルー」と地元の人々は呼んでいる。サンゴ礁がなせる技だ。黒島は周囲12キロ、人口220人あまり、そして牛の数、3,000頭。島まるごとが牧場、牧草地だ。 標高差もわずか15メートルしかない平たいハートの形をした島だ。


島まるごと牧場の黒島

Iターンの名嘉万雄さん、牛が家族だ

 島の中央部で牧場を営む名嘉万雄(なか かずお)さんを訪ねた。「今年は雨が降らなくて牧草地が枯れて大変でしたよ」と言いながらも子牛を見る表情が優しい。 竹富の島々の水の確保は小浜島、黒島、新城島が西表から、竹富島は石垣市からの海底送水、波照間は海水を淡水化してまかなう。この年は、水がめの西表島と石垣島ともに雨が降らず水不足に悩まされた。 「まあ、何とか乗り切りましたが」という。獣医さんがやってきた。親牛(種牛)が具合が悪そうなので見に来てもらったのだという。「夏バテ、疲労残りかなー」といいながら診察した後、注射をうって引き揚げて行った。

 名嘉さんは、高校進学のため石垣に出て行き、そのまま就職、定年になって黒島に戻ってきた。「もともと親が牧場をやっていたので、島を出るときから、いずれは戻ってこようと決めていたんですよ。 毎朝、子牛の顔を見ていると元気が出てくる・・・。黒島の良さ?なーんにもないこと、静かなことかなー。毎年2月の牛まつりのときだけは3,000人が来島して賑わうですよ。 このときばかりは子供からお年寄りまで島の人全員が準備から祭りの進行、後片付けまですべてやるんです。なーんにもないから島の人が結束してひとつのイベントをやり遂げる、楽しいですよ」と笑った。

 灯台のある静かな浜辺に出てみた。カップルが一組、遠くの砂浜を歩き、手前に若い女性が独り座り込んで、茫洋と黒島ブルーの海を見ている。 右手には新城島が浮んでいる。ここでカメラを出すような無粋なことは、と思いつつ気が付いたらシャッターを切っていた。どこかで見た風景だ。そうか、あのカルトムービーの名作「ある日どこかで」('80年・米 ジェーン・シーモア、クリスタファー・リーブ)のワンシーンだ。


黒島ブルーの静かな海岸線,水平線の丸さを実感できる

 黒島からチャーター船で神秘の島・新城(あらぐすく)島に渡る。黒島から15分くらいの距離だが、この島には定期船が通っていない。島民は切符を購入するとき、島民であることをつげると定期船が臨時に寄港してくれる。それ以外は石垣島からのシュノーケルツアーの船が出ているだけだ。

 新城は南北に細長い上地島、その南にある、やや円形の下地島の2つの島の総称だ。地元ではパナリ島と呼ぶことが多い。2つの島の「離れ」に由来するという。「上地」の方は住民12人35世帯?「下地」のほうは住民0だが、肉用牛牧場があり、牧場主が島外から定期的にやってくるだけだ。

 新城島の歴史は古い。1477年の朝鮮・済州島の漂流民の記録にもこの島が登場する。新城島の海域は、ジュゴンの生息地でもあった。琉球王朝支配下時代にはジュゴンの肉を人頭税の代わりに献上した記録も残っている。

 そんな新城島を案内してくれたのは、この島で公民館長・区長を務める本底重男(もとそこしげお)さんだ。「島民12人、35世帯というのは奇妙に思われるかもしれないが、ここに住民票を持ち、実際に住んでいるのが12人、11世帯。残り24世帯は、ここには住んでいないが、住宅は持っていて、催事や週末に戻ってくる世帯を指しているんです。 教育や仕事の都合で、石垣に出ていった島民が大多数だが、お互いの絆は強く、石垣在新城郷友会という組織があって島出身の110世帯が参加しているんです」


秘祭の島・新城島

島への想いを語る本底重男さん

 港から集落に向かう途中、大きな看板が目に入ってくる。
「来島者へのお願い(中略)パナリ島は自然と伝統文化の息づくふるさとである。無断でお宮に入ったり、勝手に願い事をしてはならない。撮影もしてはならない(後略)」

 私の反応を本底さんが引き取った。
「新城島には古くから4つの祭事が営々と伝えられています。6月と7月の豊年祭、して結願祭、節祭。その最大の行事は1週間にわたって繰り広げられる7月の豊年祭。 この祭りに参加できるのは島出身の関係者400人あまりだけ。島外者は一切、島への立ちり禁止。アカマタ、クロマタの祭事は島人のための儀式なんです」

 撮影しないという条件でお宮の手前まで案内してくれた。
「この奥のお宮にアカマタが降臨するんです。私は島の関係者の若者にこう説明しているんですよ。アカマタの祭事は私たちにとって太陽のような存在、その他の祭りや、郷友会といった組織はそのまわりを巡る惑星のようなもの、太陽の祭事・豊年祭を守れなければ、島も、お互いの絆をも失うことになるんだよと。」

 島を守るための秘められた祭り。この祭事が続く限り、新城島は無人島にならず、忘れ去られることもないのだろう。竹富の島々はそれぞれに伝承や文化・歴史を刻んだオンリー・ワンのボーダーなのだ。

[2015.03.06]



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