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青い十字路・シチリア島にて —くにざかい(国境)をゆく(4)—
竹内 陽一(JCBS理事)

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 ローマ・テルミニ駅午前7時32分発パレルモ行のIC(インターシティ)に飛び乗った。
ローマ・パレルモ間908キロ、イタリアの国内列車としては最長路線だ。空の便ならわずか1時間、しかし、それでは距離感もなく、旅の面白味もない。なにせ時間だけはたっぷりある。シチリア島の州都・パレルモの到着時刻は午後7時ちょうど。半日は南イタリア行を楽しめるはずだ。

 ただし、このIC、快調に走り出したのはテルミニ駅構内だけ。数分もしないうち時速30~40キロ程度の徐行運転となった。1時間ほどたってから、車内放送ががなり始めた。威勢の良いイタリア語で長々としゃべっているが、要するに「前の列車が遅れているため」これではなんの説明にもならない。車内の旅行客は釈然としない表情だ。 ナポリについた時点ですでに2時間遅れ。進行方向左手にゆっくりと白い煙を上げるヴェスビオス火山がみえてきた。やがて右手には赤い屋根と白亜の建物が並ぶ小さな街が超スローで通り過ぎていく。まるで「魔女の宅急便」の舞台となった港町を思わせる。

ヴィッラ・サン・ジョバンニの港
シチリア島はもう目の前
連絡船の船底
4線に分岐でき、客車16両がおさまる

 長靴のつま先の街、レッジョ・ディ・カラブリアのやや北にあるヴィッラ・サン・ジョバンニの港に到着。ここから12両編成のICは3,4両ごとに分割され、連絡船の船底におさまって対岸のシチリア島に渡る。

 私の知る限り、ヨーロッパの鉄道で列車ごと連絡船にのせる路線は、ここと、ハンブルグ・コペンハーゲンを結ぶ「渡り鳥路線」の2ルートだけだ。

 わずか30分程の航海だが、甲板に出た。夏至が近いからだろう。夕暮れ時の海峡は曇空ながらまだ明るい。シチリア島はもう目の前、ランドマークのエトナ山山頂は雲に覆われている。島の玄関口、メッシーナの港が見る間に迫ってきた。名物のライスボール(バターライスのおにぎり)をほおばりながら慌てて客車内に戻る。

 メッシーナに入港した時点で列車は3時間半遅れ。ICはここで東海岸沿いのシラクーザに向かう編成とパレルモに向かう編成とに切り離され、切り立った海岸線沿いをそれぞれひた走る。パレルモ駅についたのは結局、午後10時すぎ。ホームに降り立った大勢の旅人は、蜘蛛の子を散らすように、パレルモの夜のとばりに消え、私たちもそのあとを追った。

 翌朝、ちょっと早めに起きてパレルモ駅前のバスターミナルに向かう。ところがターミナルなどどこにもない。四方八方の路地にバス停らしきところがいくつもあって、人が集まっているだけだ。バス停に行先表示もなければ、時刻表もない。「アドリアーノ行きのバス停は・・・」と聞いても、みんな適当に指をさすだけ。 うろうろしているうちに、バスのドライバーが「アグリジェンド行が出るよ」と声をかけてきた。どの道、翌日には行く予定だったところ、いかにも分ったような顔をしてバスに乗り込んだ。車内は7割り方埋まっているが、幸いなことに日本人も、中国人も乗っていない。

 バスは狭い街中の道路を抜けて、内陸部を快調に走る。高速道路ではないが、ゆうに100キロは超えている。昨日のICとは大違いだ。なだらか丘陵が幾重にも続き、丘の頂に町が、丘の裾野や沢地には牧草地や麦畑、風車、規模の大きなソーラーパネルが点々と広がる。のどかな風景だが、なぜか違和感がある。少なくとも北海道とは逆の風景だ。 冬の時期は地中海の季節風が強いシチリア、何故、山頂に集落があるのか。その疑問は後でわかることになる。

なだらかな丘陵地帯が続くシチリア島の内陸部 丘陵の頂に集落が・・・



シチリア州の州旗 中央に描かれているのはギリシャ神話の
メデューサの顔と3本の足「トリナクィア」

 シチリア島の面積はおよそ2万5千平方㎞、四国の1.4倍ほどの広さ。人口は500万人弱、その大部分は海岸部のパレルモ、カターニャ、メッシーナ、シラクーザの都市部に集中し、内陸部は過疎化が進んでいる。しかし地中海最大のこの島は、3,000年前からギリシャの植民都市が建設され、古代ギリシャ文明の影響が色濃い。 現代の州旗はギリシャ神話のメデューサの顔と3本の足 「トリナクィア」が描かれている。ギリシャ語の「三つの岬」に由来するという。紀元前の数学者アルキメデスもこのシチリア出身だ。

 紀元前480年ころから言わば対岸ともいえるアフリカの都市国家カルタゴ(現代のチュニスに近い)との戦いが続き、島内の都市国家同士でも争いが頻発し、北からローマ帝国が南下する。 800年代には南からのイスラム教徒によって支配され、さらにノルマン人が島を征服し、シチリア王国が誕生。1200年代にはフランスの、1500年代に入るとスペインの支配を受ける。イタリアに組み込まれたのはたかだか150年前、1860年代のことだ。まさしく東西南北の文明が交錯する島だったのだ。

 パレルモから2時間あまり、島の西部を縦断し、アグリジェンドに着いた。想像以上に大きな街だ。中心部は白壁の建物がひしめき合い、その背後には高層のマンションが立ち並ぶ。中心部からタクシーに乗って10分ほどで古代遺跡「神殿の谷」へ。入場料6ユーロを払って遺跡内に入る。どこが神殿の「谷」なのかというのが最初の実感だ。 確かに沢地にいくつかの遺跡が見えるが、名だたる神殿は、いずれも地中海を見渡す丘陵地帯に点々と続いている。直線距離にしておよそ2キロ。紀元前400年から500年ぐらいに建造された神殿群で、カルタゴの攻撃によって破壊されたり、建造途中で放棄された神殿もある。

アグリジェンドの神殿の谷
紀元前5世紀ころの建造
古代の住居跡

遺跡を辿る道にはサボテンの花 遺跡とアグリジェンドの街並み

 やけに陽気な30人ほどの一団に遭遇した。ボーイスカウトスタイルの少年たちも入り混じっている。神殿をバックに集合写真を撮ってくれという。カメラを渡され、シャッターを切ると、今度は「俺のカメラでも」と次々とカメラを渡され、彼らは少なくなくとも10数回はてんでんばらばらのポーズを作った。 予想通り、カリフォルニアからやってきた考古の学者・研究者の一団だった。古代ギリシャの調査に入っているのだというが、少なくともこの日は怪しい。まるでインディージョーンズ集団だ。

 神殿群をゆっくりと見ながら、サボテンの花が咲いている古代への道を2キロほど歩いた。雲一つない晴天、遮るものがなく、気温は多分、30度を超えているだろう、汗が噴き出した。小さな売店で水を求めるが、WATERが通じない。指をさすと「ああ、AQUAのことね」とそっけない。 海を見下ろす白い石垣に寝そべってボトルを飲み干す。陽光きらめく海辺を見ていると、押し寄せるカルタゴ船団の情景が浮かんだ。気分がボーッとしてまるで2,500年前にタイムスリップした錯覚にとらわれた。

 帰途はアグリジェンド駅に戻って鉄道に乗る。一面の草地や赤土の荒野を、2両の気動車は進む。途中、廃屋や廃駅ばかりが目につき、逆に人影や車を見かけることがない。50年前、少年期に観た「越境者」(`53年・伊 ピエトロ・ジェルミ)の炭鉱労働者が廃坑の前で茫然とたたずむシーンが重なる。 この日、パレルモには午後7時前に帰着した。

 翌朝は再びアドリアーノ行のバス停探しだ。ホテルのフロントとの会話は成立しなかったが、今日は勝算があった。事前に調べたとき、アドリアーノ行はATS社運行、日に3往復程度という記載があったのを思い出したからだ。 バス停界隈に行くと、早速、銀色の車体に「ATS」と書かれたバスが停車しているのを見つけ、車内に乗り込んでドライバーに尋ねた。「朝一便は7時前に出ているから、次は1時半だよ」 時計を見たら、まだ4時間以上はあるので、パレルモの中心部を散策することにした。

パレルモの街には市場が多い クアットロ・カンティ
スペイン支配下の1600年代初頭に建造

 「ゴッドファーザー」(`72年・米 フランシス・フォード・コッポラ)の舞台となり、1990年代後半には、近郊で判事二人が暗殺されたマフィアの街、一方で文理・芸術系の大学や美術館、博物館、教育研究機関が集まる学術の都でもある。駅から中心部までは歩いて20分ほど、道すがら至る所に、魚屋・果物・花売りの市場が並び、賑わっている。

 紀元前にフェニキア人(現代のシリアからレバノンに居住)によって築かれた港町、キリスト教とイスラム教が交錯し、東西南北の文明が融合した街並みは、なかなか見ごたえがある。クアットロ・カンティと呼ばれる四つ角に出た。スペイン支配下の1600年代初頭に12年をかけて築かれた重厚な建物が四方に鎮座し、歴代スペイン総督、守護聖人が壁画に描かれている。 四つ角自体が歴史遺産なのだ。写真を撮りながらそぞろ歩き、紫の花をつけた樹木(樹木名はわからずじまい、ライラックではない)に囲まれたセッテーモ広場のカフェテリアで軽く昼食、時計を見たらもう12時半を過ぎている。今度は最短距離で駅に取って返した。

 多少、不安がよぎったが、定刻より数分遅れで「パラッツォ・アドリアーノ行き」としっかり表示されたATS社のバスが到着した。車内は瞬く間に満席、立席もでる混み具合だ。バスは途中まで昨日のアグリジェンドへ向かう道を辿り、途中から大きく曲がって、丘の頂の集落をめざして登り始めた。 乗客を降ろして下り、また別な山頂を目指す、ということを3回繰り返した。乗客は途中の集落で次々と降り、もう残すのは私たちを含めて7人。バスは最後の力を振絞り、今までで一番険しい山道を登っていく。 頂の村が近づき、バスは石畳と噴水のある広場で止まった。「はい、終点のアドリアーノだよ」と大柄のごつそうなドライバーは言いながら、降りようとする私たちに気づいて「ラストバスは16時10分だよ」と2回繰り返し、念を押した。多分、日帰りの旅人と察したのだろう。人は見かけによらない。このアドバイスは大変有難かった。この頂の村にはタクシーも、宿泊施設もないのだ。

頂の村 アドリアーノ この広場が「ニュー・シネマ・パラダイス」
の舞台となった



見覚えのある風景だ

 とうとうこの広場に降り立った。今にも少年トトが広場の向こうから姿を現しそうな佇まいだ。パラッツォ・アドリアーノは「ニューシネマ・パラダイス」(`88年・伊 ジョゼッペ・トルナトーレ)のロケ地となったところだ。最近の映画と思いこんでいたが、公開されてからすでに26年が経過した。 エンニオ・モリコーネの主題曲は、今も親しまれているが、劇場の大画面でこの映画を見たという人は40代後半以上の人だろう。公開直後はアドリアーノに張りぼてのセットが残され、映画ファンが押し掛ける、それなりの観光地だったようだが、今はその面影もなく「日常」を取り戻してる。

 ラストバスまで、まだ1時間余りはある。といってもムービーを撮ったり、スチールを撮ったりで、それなりに時間は過ぎていく。広場の中心を正装し、帽子をかぶった老人が杖をつきながら背筋を伸ばして行ったり来たりしている。その奥では、椅子に座った老人5人が物静かに座ってこちらを見ている。 談笑するわけでもなく、広場には噴水のかすかな水音だけが聞こえてくる。ここは本当にイタリアなのだろうかと思っているうちに、不意に現れた3人連れの若い女性に声をかけられた。シチリアの史的研究のリポートをまとめるために歩いているパレルモの大学生だった。 彼女たちの説明によると、アドリアーノ地区は15世紀、オスマントルコの侵略を逃れたアルバニア人が船でシチリアに渡り、この辺りの丘陵地帯に定住したのだという。深い谷があるわけではないので、敵の襲来に備え、見晴らしの良い山頂に寄り添うように集落を築いたのだ。

 「ところで君たちはどうやって帰るの?」「この村に研修施設があってそこに1週間、ステイしているの」と手を振った。映画の中のトトは青年期に、恋の夢破れ、ローマに出ていく。こんな女の子たちがいたら、トトはアドリアーノにとどまったかもしれない。そしてイタリアを代表する大監督は輩出されなかったかも知れない。 頭の中で、そんな映画の世界と現実を行ったり来たりしているうちに、ラストバスはやってきた。

 10日間程島を巡り、帰途はカターニャからミラノ行のAIRに乗った。空港を飛び立つと噴煙を上げるエトナ山山頂の火口がはっきりと見える。機体がさらに上昇して、青い地中海に浮かぶ島の北側の輪郭が明瞭になってくる。

 「長靴が蹴り上げた小石」 時にはこう表現されるシチリア。しかしこの島はイタリアであってイタリアでない。「小石」どころか「青い十字路の島」だ。

[2014.11.19]



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