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海峡に暮らす・根室にて —くにざかい(国境)をゆく(3)—

竹内 陽一(JCBS理事)

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 魚を焼く美味しそうな臭いが空腹の胃袋に浸みこむ。一面に立ち込めた煙が目に染みる。

 根室の最大イベント、「さんま祭り」。今年も4トンの炉ばた焼き用のサンマが用意された。トン数で言われてもピンと来ないが、2万5千尾、来場者は100円でトレイと箸を買うと水揚げされたばかりのサンマが食べ放題、中には一人で6尾をたいらげたつわもの?もいる。 9月20・21日、根室港岸壁の会場に足を運んだ人々は道内外から2万人近くを数えた。

 この10年、なぜか2年に1度は「根室さんま祭り」に顔を出している。それもそのはずだ。
根室はこの祭りが開かれる9月中旬くらいから太平洋側の霧がとれて視界が広がるからだ。ベストシーズンは12月初めまで、太陽さえ顔を出せば、日中の最高気温は低くなっても、爽快な季節の訪れだ。


根室港のサンマ祭り会場には
2日間で2万人が訪れた

2万5千尾のサンマが訪れた人の胃袋に


22年間、祭りを支え続けた実行委員長の田家徹さん

 という訳で、今年の「根室さんま祭り」も爽快な秋晴れ。会場の片隅で祭りの実行委員長田家 徹さんの表情もほころぶ。22年前、この祭りを立ち上げ、ひたすら祭りを支え、東奔西走してきた。

  「平成4年、知りあいから500キロのサンマを譲り受けたのがきっかけでした。このときは鳴海公園のお祭りに合わせ、ささやかな炉端焼きで、市民に旬の味覚を味わってもらったんですが、それでもサンマが余り、ビニール袋に入れて持ち帰ってもらんたんですよ」と手作りで始まった祭りの歴史を振り返る。

 田家さんの本業はスーパー経営。地元に根を張った人脈の広さと人望、さらに「来年もやろうよ」という有志の声が後押しをした。

  「翌年からは根室のサンマを全国に発信しよう。それなら鉄道でつながっている根室駅だ、駅前広場だ、という話になり、駅前の寿司店のご主人や漁協婦人部にも協力をいただきました」 もともと祭りは、行政主導ではなく、市民レベルで輪が広がっていったのだ。

 当時、田家さんはまだ30代後半、さんま祭りの先進地・女川(宮城県)にも手弁当で視察に出かけた。女川は多額の(原発)交付金で祭りが成立していたが、田家さんにはそれが逆バネにもなった。多くの市民のボランティア、漁業協同組合などのバックアップで、祭りの認知度は年々あがり、会場も駅前から今の根室港岸壁に移った。気が付いたらそれまで根室の主役だった「カニ祭り」の規模を上回る大きな祭りに成長し、毎年、地元ばかりでなく、道内外から大勢の人が根室に訪れるようになった。

 「22年間、毎年、実行委員長を務めてきたが、私もすでに60代、もう若い人に譲りたい」
決して「疲れた」と言わず、「若い世代のアイデアで祭りをさらに発展させたい」という田家さんに根室の人々の逞しさを見る思いがした。


蝶を描き続ける小林邦弘さん

小林邸のアトリエ 120号も描けるように
改造するのが当面の課題と言う

 政財界の世界では一昔前「50、60、鼻たれ小僧」という言葉が盛んにつかわれたが、その先のフレーズを久しぶりに耳にした。「70、80 花盛り」

 そう言い放ったのは根室で水産加工場などを経営する小林 邦弘さん76歳。小林さんと初めて出会ったのは、実は根室ではない。

 東京から1,000キロ南に浮かぶ小笠原諸島。その後、3年ほどの間に沖縄、八重山諸島、五島列島、そして対馬などで旅をともにした。

 北方領土を目の前にしている以上、根室だけではなく、他のボーダーもこの目で確かめたい、国境を旅するならいまのうち、という心意気だ。杖をついての旅だが、男女群島の女島で手助けなしに船から岸壁に飛び降りたのには驚いた。長い急坂などは無理だが、奥さんの有子さんとその友人がサポート部隊だ。

 これには私も逆に刺激され、励まされた。「60代後半、鉄道と映画のロケ地を漂流するのもあと数年」と思っていたのが、小林さんに出会ってその年限がグーンと伸びた。「あと10年はいけるかな・・・」

 小林家では、ビザなし交流の初期の段階から、ロシアの若者たちのホームステイを受け入れてきた。ロータリークラブで活躍していた時代には単身カムチャッカなどを視察した。 その一方で昭和20年の終戦時、占守島で玉砕した人々にも想いを寄せる。「彼らの戦いが南下するロシア軍から根室を、北海道を守ってくれた。だから千島列島の北辺で散っていた兵士を記憶にとどめる慰霊を続けたい」これが小林さんのライフワークの一つだ。

 小林さんは、時々茶目っ気を発揮する。五島で夕食を共にしたとき、「僕はこういうものなんです」と改めて名刺と手製の絵葉書を出してきた。そこには蝶々の絵がカラーで刷り込まれていた。初めて小林さんが画家であることを知った。

 小学校時代から絵を描くのが好きだったという。勉学の、社会に出てからは仕事の合間を縫って描き続け、自宅にアトリエを持つようになった。最近は行動展にも入選し、6連覇を成し遂げた。小林ワールドはここで創作されるが、そのモチーフは国境の旅によって生み出される。

 もともとは「家族の肖像」や「花」など身近な具象画を、国境を歩き始めたときは小笠原の島々の風景画などを描いていた。それが石垣島や与那国島を訪れたときからテーマが蝶々に変わった。「オオゴマダラとスジクロカバマダラ」その鮮やかな彩りに思わず引き込まれる。

 「蝶に魅せられた理由は・・・」と聞いても「いや、妖艶だからね」などとなかなか本音を語らない。最後にぽつりと「海を渡る蝶、蝶は海もわたるんだよ・・・」とつぶやいた。茫洋とした視線の先に、境界をもたず自由に飛び回る蝶への憧憬が強く感じられた。



NPO法人日露平和公園協会の理事長 午来昌さん



羅臼漁港と根室海峡に浮かぶ国後島(羅臼町国後展望塔より)

 午来昌(ごらいさかえ)さんには、羅臼国後展望塔で30数年ぶりに再会した。取材を申し入れたところ、軽トラを運転して知床横断道路を通って峠を越え駆けつけていただいた。 「もう78歳ですよ」といいながらも日焼けした顔をほころばせる。平成19年に町長を勇退後は、もともとの本業・農家に立ちかえり、奥さんと2人で今も知床の大地と向き合っている。

 昭和11年、斜里町ウトロ生まれの午来さんは、昭和42年からの町議時代、営林局やリゾート開発業者を相手に、仲間と知床100平方㍍運動(ナショナルトラスト)に取り組んだ。昭和61年からは4期20年、町長を務め、その長年にわたる自然保護運動が実を結び知床は平成17年(2005年)世界遺産に登録された。

 一町民に戻った午来さんだが、知床・千島の貴重な自然を保護し、後世に残そうという信念は今も変わっていない。平成20年(2008年)「NPO法人日露平和公園協会」を仲間たちと立ち上げた。知床の世界遺産地域を北方4島とウルップ島まで広げようという構想だ。

 その背景について午来さんは「知床からウルップ島まで、自然の生態系は全く同じ。ところが経済優先が進む中、北方の海は密漁と乱獲の海と化しこのままでは海獣や海鳥など野生生物の楽園が崩壊し、海と大地の循環という自然のゆりかごが失われてしまう」と熱っぽく語る。

 ウルップ島までの公園化を目指すのは、北方領土返還という形を変えた政治的運動との誤解を避けるためでもある。日露両国首脳には平和公園実現に向けて要望書も送った。

 世界遺産条約には係争地の取り扱いについて「2つ以上の国が主権・管轄権を主張している地域については(世界遺産遺産の指定を受けても)その紛争の当事国の権利にいかなる影響をもたらすものでもない」と明記されている。

 「日本とロシアがスクラムを組んでこの自然を守ることができれば、かけがえのない遺産を両国の子供たちに残すことができるのですよ」そう言い切った午来さんは知床半島から、その目と鼻の先にある国後島、今日も青々とした北方の海に視線を送った。

[2014.10.21]



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