Essays
アイルランド・アイリッシュ海にて
—くにざかい(国境)をゆく(2)—
竹内 陽一(JCBS理事)
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かつての映画少年たちはもう忘れてしまったことだろうか。
ティングル半島に打ち寄せる北大西洋の潮騒を、そして白い日傘をかざして砂浜を歩くサラ・マイルズの幻影を・・・・・。
アイルランドを舞台にした映画は実に多い。「静かなる男」「ライアンの娘」「ザ・デッド ダブリン市民」「マイケル・コリンズ」「死に行く者への祈り」「遙かなる大地」等々、枚挙に暇がない。
そしてその多くはアイルランドとイギリスのかかわりを主題・背景にしている。
中でも1900年代初めのティングル半島の寒村を舞台に、村人と駐屯する英軍兵士との微妙な人間・男女関係を淡々と描いた「ライアンの娘」('70年 デヴィッド・リーン)は秀作だ。
アイルランドは北海道よりやや大きく、面積は8万4400平方キロメートル。そのうち83パーセントの面積を占めるのがアイルランド共和国、人口は400万人。首都のダブリンはヨーロッパの人々が「最も暮らしてみたい街」にあげる、明るく穏やかな田舎の都市だ。
新型の路面電車ルアスに乗って、その中心部にあるトリニティカレッジに足を運んだ。日曜日の午前中、図書館は予想通り大変な行列だ。蔵書500万冊というこのロング図書館は「スターウォーズ」に登場するジェダイ図書館のモデルにもなった。もっとも行列のお目当ては国民的な宝となっている「ケルズの書」だ。
入館料10ユーロを払うと待ち時間の間、切符のもぎりのおじさんが話しかけてくる。
「日本からの個人客は珍しいが、団体客がたまにははやってくるよ。僕は2年間、大阪に住んでいたことがあるから日本はイギリスより好きな国さ。まあ、じっくり見て行ってね」と屈託ない。
5000年以上前にアイルランドに定住したと思われる謎多き先住民、その足跡は巨石古墳として残されている。
そして紀元前200年ごろになるとケルトの人々がやってきた。ケルトの古代遺跡があるタラの丘は今も、アイルランドの人々の心のふるさとだ。
先住民族、ケルトの人々は太陽神など自然を心のよりどころとしていたが、5世紀、聖パトリックによってもたらされたカトリックと融合としてケルトの独自の宗教観、精神文化を育んでいった。
「ケルズの書」はこうしたケルト文化を背景に、800年代初め、ヴァイキングの襲来からダブリン近くの小島に避難してきた修道士が、4つの福音書を牛の皮に記したもので、アンシャル文字ばかりでなく、ケルト文化特有の渦巻き模様を織り交ぜながら、聖母子像や人、動物が鮮やかな色彩で、生き生きと描かれている。
展示室に入ると人の流れが止まる。ケルズの書のその精細さ、色遣いに思わず私も見入ってしまう。「世界でもっとも美しい書物」と言われているが理由が納得できる。
アイルランドはローマ帝国の侵略こそ受けなかったが、8世紀に入るとヴァイキングが侵攻し、12世紀にはノルマン人がやってくる
さらにこのころから、イングランドやスコットランドからの支配力が強まり、アイルランドとイギリスの対立が深まっていく。そのきわめつけがオリバー・クロムウエル指揮するボイン川の戦いでの大虐殺だ。今もアイルランドの国民にとってはクロムウエルは「歴史上の超極悪人」という扱いだ。
1801年にイギリス(グレートブリテン王国)はアイルランド王国を軍事力で併合、独立派の内戦を含め、血塗られた時代が続くことになる。
コークを基点に島の南を回り、ヴァイキングによって9世紀に開かれというウェックスフォードに立ち寄る。12世紀に建てられた草蒸したセルスカー修道院にその名残を見ることができる。
研修センターで、パソコンをたたいてる若者は「ここが共和国建国の原点となった」と誇らしげに語る。18世紀末、イギリスへの反乱・蜂起はこの街から起きたのだ。アイリッシュ海を望み、初夏の陽光が降りそそぐ明るい港町はそんな進取の気性を育んできたのかもしれない。
再びダブリンを経由し、今度は北アイルランドの中心地、ベルファストに入る。別な国に入ったと実感させるのは、通貨がユーロからポンドに変わっただけではない。中心部を歩くとやたらとイギリス国旗がはためいていることだ。共和国旗はダブリン空港とダブリン城で見たぐらいだったが、ベルファストは全く違う。「ここはイギリスだよ」と強調しているようにも思えてくる。
イギリスは戦争や支配、差別以外にアイルランドになにをもたらしたか。それは産業革命による工業化だ。タイタニック号はここベルファスト港で建造・進水した。港には建造したドッグが保存され、100年記念ビジターセンターともに今は貴重な観光資源だ。
北アイルランドの人口は170万人余り、そのうち25万弱がベルファストに住んでいる。共和国では93パーセントがカトリック系だが、北アイルランではその比率が逆転しているのかと思うとそうではない。
研究機関が行った調査では46パーセントがプロテスタント、40パーセントがカトリックという。この微妙なバランスとイギリスの支配・差別政策が1960年代以降、北アイルランドに紛争をもたらし、IRAやそれに対抗するイギリス陸軍、私兵組織の間で殺戮が繰り返された。沈静化したのは、1998年のベルファスト合意以降、ごく最近のことだ。
中心部から北西部にあるウエスト・ベルファストの壁と鉄条網に分断されたピースラインを歩く。
穏やかな住宅地だが、双方の地域に「殺された無垢な一家」「ハンガーストライキによって獄中死」などと書かれたモニュメントやペイント、レリーフがあちこちに掲示されている。
カトリック系地区で写真をとっていると「どこから来たんだい」と教会前のベンチに座っていた初老の男性が声をかけてきた。ホテルで道を聞いたとき、「ピースラインに入ったら、あまり政治的な話はしないほうがいいよ」とアドバイスを受けていたので、それとなく「この地域の最近の暮らしぶりはどうか」と聞いてみた。
向こうもなんとなく察したのか「今は穏やかなものさ。壁を超えて日常的に行き来しているし、プロテスタントの友人もいる。職場だって一緒に仕事をしている。宗教対立ばかりじゃ、生活していけないからね」と淡々と話す。
「あの憎しみの連鎖は何だったんですかね」とたたみかけると「私たちが若いころは仕事がなかった。打ち込むものがなかった。いつの時代も若者には心の支えが必要じゃないのかな。」と意味深長な答えが返ってきた。
それを聞いて「ライアンの娘」のワンシーンがよみがえってきた。
寒村の唯一の社交場・小さな酒場での店主と神父との会話
神父「最近の若者はろくでもないやつばかりだ。弱い者いじめばかりだ」
ライアン「仕事がないんですよ。やることがない。暇をもてあましてる。そうでないのはレジスタンスだ」
同じく若いイギリス兵士との会話
ライアン「お前らはその銃でアイルランド人を殺す、子供まで・・・」
英軍兵士「僕らは、軍服を着せられ、命令があったら引き金をひく、ただそれだけだよ」
アイルランドは支配する側と支配される側の対立・戦いが500年以上も続いてきた。その相克を、「カトリック」と「プロテスタント」の宗教対立の図式のみで語るのは間違いだろう。
最近、北アイルランドではこんな調査結果も出された。プロテスタント38パーセント、カトリック24パーセント、そして「どちらでもない」35パーセント、時代は確かに変わりつつあるのだろう。
ジャイアンツコーズウェイを経由してロンドンデリーに向かう。 アイルランドは火山地形と氷河地形の名残の島だ。氷河が削り取った山肌と深い入り江、水鳥の楽園ともいえる湿地帯が延々と続く。
とても係争の地だったとは思えない雄大で、のどかな風景だが、すぐ現実に引き戻される。
フォイル川の河畔に開けた終着駅・ロンドンデリーに列車はゆっくりと滑り込む。列車の行き先表示も、駅のプレートも「Derry/Londonderry」となっている。6世紀に開かれた「Derry」の語源はゲール語で「樫の木」。これがもともとの地名だが、17世紀に入ってプロテスタントの入植が進み、イギリスの支配下になって「Londonderry」と呼ぶようになった。したがって地名の両表記はこの街がたどった歴史を端的に示しているのだ。あの有名な「ロンドンデリーの歌」は北アイルランドの「国歌」にもなっている。
歌の通り美しい街だが、街の中心部をぐるりと城壁が取り囲む。1688年から翌89年にかけイギリスの王位継承の争奪に巻きこまれ、この城壁では激しい攻防戦が105日間も繰り広げられた。
1972年にはこの城壁内で公民権を要求するカトリック系のデモにイギリス軍が発砲し、13人の市民が命を落とす「血の日曜日」事件が起きた。これがきっかけとなり、IRA(カトリック系過激派)とそれに対抗するプロテスタント系過激派のテロの応酬は先鋭化し、ベルファストやロンドンにまで飛び火、3000人を超える犠牲者を出す事態となった。(この事件に関し2010年、デイビット・キャメロン首相は調査結果に基づき、イギリス政府として公式に謝罪し、そのニュースはこのロンドンデリーでも大型スクリーンで伝えられたという)
城壁を登り、歩きだすと日差しが照り返し、やけに暑い。アイルランドに来て初めて汗が出てきた。目の前をガイドがイタリアの団体を引き連れて、案内している。ビショップ門にたどり着くと別なラテン系の人々が通り過ぎ、そのあとには日本人の団体が続いた。街の中心部にある噴水では、 子供たちが水遊びをしている。アイルランド史を揺り動かした城壁の街も、今は日常生活にボーダーツリズムが融合しているかのような風景だ。
ベルファストからステナラインのフェリーで対岸のイギリス本土にわたる。時間にして2時間20分、対岸のケイルンライアンの港についてもアイルランドの稜線が、青い海、青い空のはざまにくっきりと浮かび上がっている。
1845年から5年間、アイルランドはジャガイモ飢饉に見舞われた。このときイギリス本土はすでに支配下においていたアイルランドに救いの手を差し伸べなかった。それどころか、その大飢饉のさなかにも、わずかに収穫された農作物をイギリスに移出させた。
正確な記録は残っていない。しかし飢饉以前に700万人を数えた人口が、1800年代後半には400万人台に激減していることから、アイルランド共和国政府は、「ジャガイモ飢饉によって100万人近くが餓死し、100万人を超える人々が移民としてアイルランドを去った」との見解を示している。
移民の多くは、この目と鼻の先にあるアイリッシュ海を渡らずに、あえて北大西洋を超え、新大陸に向かった。そして現代アメリカの基礎を築く原動力となった。
[2014.08.20]