JCBS:NPO 国境地域研究センター:Essays

トップページEssays>Essay002

Essays

対馬・浅茅湾にて  —くにざかい(国境)をゆく—

竹内 陽一(JCBS理事)

*画像をクリックすると拡大します



 
会話の中で「対馬には と・か・い・せ・ん もあるんで・・・」と聞き、しばし頭の中であてはまる「漢字」を検索した。
「上県」(かみあがた) 「豆酘」(つつ)など対馬にも難読地名が多いので、その類かと思ったら
わりと日常的な?単語、つまり「渡し」「渡し舟」と同じ意味の「渡海船」であった。

川ではなく、海、浅茅湾をめぐる船なので「渡海船」という訳だ。
そういえば「浅茅」(あそう)も少なくとも北日本に住む人には難読地名だろう。

 南北に細長い対馬の面積は沖縄本島の半分程度、しかし海岸線の総延長は、沖縄本島の1.6倍、915キロにも及ぶ。

それだけ対馬の海岸線は複雑に入り組んでいる。

特に浅茅湾に面した集落は、陸上交通が極めて不便、
そこで、この渡海船が生活の足として1世紀近くも活躍してきた。



浅茅湾の7つの集落を巡り、1日2往復する市営渡海船「ニューとよたま号」

椿も終わりかけた早春の2月下旬、レンタカーで厳原から市営渡海船「ニューとよたま号」に乗るため、「樽ケ浜」に向かった。 これが案内板もなく、大変わかりずらい。
地図を頼りに、近づきつつ、何回か商店などで道を尋ねながら、ようやく奥まった入り江の乗船場にたどり着いた。


出航前の樽ヶ浜の船着場

船内は畳スペースとベンチシートの2タイプ

小さな待合室には、60歳過ぎと思われるご婦人が、鞄と大きな布袋を持って、ポツンと座っていたので早速声をかけてみた。
伺うと高齢のお母さんの介護のため、月何度となく、この渡海船を利用しているという。

岸壁で渡海船の船長、阿比留誠一さんにも話を聞いた(対馬にはこの「あびる」姓が圧倒的に多い)

「浅茅湾は風光明媚だが、湾沿いに住む人にとっては、昔から生活の足を確保するのが大変でしたよ。以前は道路がない集落もあったので、渡海船が生命線。市営ばかりでなく、いくつかの民間渡海船が運航していたのですが、このごろは、道路事情もよくなり、利用者も減り、残っているのはこの一隻。」とやや寂しげ。

ただ最近は観光面での見直し機運があるという。


 「ニューとよたま」は私たちを除くと先ほどのご婦人と70前後の男性を乗せて、定時に出航した。
出航してすぐ右手高台に対馬空港ビルや管制塔が見えてくる。

湾がベタなぎなので、甲板に出してもらう。阿比留船長が私たちのために拡声器で見どころを解説してくれる。

左手奥に対馬の名峰・白嶽(しらたけ)が、手前には城山(じょうやま)が望める。

飛鳥時代の667年に中大兄皇子の命によって築かれた「かなたのき」の城跡だ。
この城山は前々回、対馬を訪れたときに半日かけて探索した。

唐や新羅(しらぎ)から倭(やまと)の国を守るために築城された、日本ではもっとも古い山城の一つ。
山頂の城塁の中には明治時代に入ってつくられた砲台跡が残る。
天然の断崖と3キロにおよぶ城壁によって、古代からたびたび要塞化された城山。
山道を歩くと、風音の中に、ここで暮らした防人(さきもり)のささやきが聞こえてくるようだ。


 渡海船は芋崎灯台沖にさしかかっている。
浅茅湾に突き出したこの辺りの海域は、まだ鎖国時代の1861年、ロシアの軍艦ポサドニック号が強引に滞留し、兵舎などを建設、地元住民に危害を加えた対馬事件が起きたところだ。
ロシアの狙いは東アジアに進出する拠点確保が狙いだったといわれている。

この浅茅湾だけを見ても、対馬がいかに古代から今に至るまで、朝鮮半島やロシアと深く向きあう国境の島であったことを実感する。

「晴れているとこの先に朝鮮半島が見えるんですが、今日は霞んでいますね」と阿比留船長が額に手をかざし、目を細めながら教えてくれる。


 樽ケ浜を出て20分、渡海船は最初の船着場、加志々(かしし)に着いた。
陸上部を車で走らせると1時間半はかかるという地域、渡海船のありがたみがわかるというものだ。

午前中の逆便だと、厳原に向かう学生や、病院通いの人たちで渡海船はにぎわっているという。
先ほどのご婦人が「いい取材をしてくださいね」といいながら手を振って降りて行く。
次の船着場で男性も下船し、この先は私たちだけとなった。


 渡海船は浅茅湾の奥を目指してさらに進んでいく。
複雑に入り組んだ浅茅湾は天然の海の畑、マグロや真珠の養殖施設のブイがあちらこちらに浮かんでいる。

再び阿比留船長の解説。
湾に面した集落には朝鮮出兵の時代、そのまま対馬に住み着いた武士もいたといい、京都をルーツにする住民や京都周辺の地名が今も残っているのだという。


 浅茅湾に面した7つの集落をめぐり、1時間20分ほどかけて湾の北にある仁位(にい)を目指す小さな旅もまもなく終着点。


 その直前に鳥居が水に生える和多都美(わたつみ)神社が目に入ってきた。
陸上部から鳥居を見るのはごく普通だが、海側から望むのは初めての経験、 竜宮伝説を偲ばせる直線に並んだ鳥居の奥に本殿を一望できる。




陸からの眺め。つまり鳥居の後ろ姿

対馬は「古事記」や「日本書紀」に「最初に生まれた島の一つ」と記される建国神話の島だ。

3世紀末、中国で記された魏志倭人伝には「対馬の国」が登場しており、
すでにその時代から大陸と日本列島の接点として注目されていたことをうかがわせる。

仁位の船着場から和多都美神社まで歩いて20分、さらに神社から20分、
鳥帽子岳の山頂に立つと、墨絵のような浅茅湾を一望することが出来る。


市営渡海船は国の交付金などで赤字を補てんしながら、運航されている、という。
ただ実際に乗船してみると、住民の足としてばかりでなく、浅茅湾を巡る一級のボーダーツーリズムとして活用できるのではないか、との思いを強くする。

すでに午前便、午後便の一日2往復の空き時間にはチャーター船としてツアー募集の試みも始まっている。仮に定期便で往復しても2,000円、チャーター船は参加者が多ければ3,000円程度。

対馬を訪れる人には、名ガイド・阿比留船長の「浅茅湾・歴史と今」の解説を聞きながら乗船することをぜひおすすめしたい。  

[2014.06.14]


*「ニューとよたま号」チャーターの詳細は、対馬市オフィシャルホームページをご覧ください。
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/web/tsushimanews/post_24.html


■Back Number

▲PAGE TOP▲